年間第30主日(マタイ22:34-40)

今日の福音の鍵は、「最も重要なものは何か」ということだと思います。そしてその答えは、私がこの目で見たことと、自分の体験によれば、「どうやったら伝えることができるか」を考えることだと思います。

今週私は、手話のミサをしています。最も大切だと考えていることが一つあります。それは、朗読する福音書、お説教など、私が考えたことを、どうやったら伝えることができるだろうか。これです。

上手か、上手でないかは問題ではありません(上手でもありませんが)。相手に、よく分かるように、どうしたら伝えることができるか、相手のことをいちばんに考えることが、いちばん重要なことだと思います。

そう考えると、今日の福音はスッキリ解決すると思います。律法の専門家が、「どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたときに、イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と仰いました。

「あなたの神である主を愛しなさい」この点については、だれも反対しないと思います。心を尽くして、愛する。むしろこちらを考える必要があると思います。また同じように、「隣人を愛しなさい」ということにも、だれも反対しないのですが、「自分のように愛する」ということを考える必要があると思います。

「心を尽くして愛する」「自分と同じように愛する」それは、どうしたら、相手に伝えることができるか、ということと同じです。神様を愛しますが、どうしたら、私が神様を愛していることが、神様に伝わるでしょうか?答えは、あなたが、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くさないと、神様には伝わりません、ということです。

また、隣人を愛そうと心に決めました。どうしたら、隣人に分かってもらうことができるでしょうか?答えは、自分を愛するのと同じように愛したら、伝えることができますよ、ということなんです。

いつも、「どうやったら、どうしたら、相手に伝えることができるか」を考えている人は、心の中にあることを相手に伝えることができます。その気持ちがなければ、上手に話しても、伝えることはできないのです。

このいちばん重要なことを、はっきり教えてくれた例を紹介したいと思います。私が長崎市内にいた頃の話です。シスターが、玄関に来ている人とお話をしていました。普通にお話をしているので、「あー、教会を見に来たのだなあ」と思っていたんです。すると、そのシスターは何回も、「お名前は何ですか」「お国はどちらですか」と聞いています。

「お国はどちらですか」と聞いているので、生まれた場所、九州の人か、東京の人か聞いているのだと思ったのですが、玄関に行ってびっくりです。シスターは、外国人に、堂々と日本語で「お名前は?」「お国はどちらですか?」と聞いていたんですね。びっくりして声も出なかったのですが、シスターは続けて、こう言ったのです。

「私が早口で分からないのかしら。『お・な・ま・え・は?』『お・く・に・は?』」二人の会話を聞いていて、私は漫才をしているのかと思いました。相手は外国人なのに、日本語でどんなにゆっくり話しても、決して分からないはずです。けれどもシスターは、一生懸命話をしていました。もしかしたら、その外国人に、シスターの熱意が伝わっていたのかも知れません。

私はあの時のことを思い出して、どうしたら、私の思いを伝えることができるか、一生懸命考えることがいちばん大事なんだと心から思いました。外国語が話せるかどうかよりも、相手のことを一生懸命考える気持ちが、いちばん大切だったのです。

エス様の時代、掟はたくさんありました。当時、600を越える掟があったと言われています。その掟を全部知っていても、神様が喜ぶわけではありません。600以上の掟を守っているからと言って、隣人を愛しているかどうかは分かりません。

エス様は今日ここで、一つひとつのことに心を尽くしていなければ、あなたの熱心さは神様には伝わりませんよ、「どうしてもらえば嬉しいだろうか」をよく考えないと、隣人にあなたの気持ちは伝わりませんよと、教えてくださっているのだと思います。

もう一度、最も重要なものは何か、考えてみましょう。あの人に「赦します」と言ったから私はあの人を愛しているのでしょうか?1時間、2時間、あの人のために使ったから、立派に愛しているのでしょうか。そうとも限りません。どうしたら、私の気持ちを伝えることができるかを、考えなかったら、その人に時間を差し出しても、「赦します」と言っても、伝わらないのかも知れません。

生活をどのように整えたら、私が神様を大切にしていることが伝わるだろうか。どんな接し方をしたら、あの人に私の心が伝わるだろうか。何よりもまずそのことを考える人になることができるように、今日のミサの中で導きを願ってまいりましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今週、太田尾小教区に佐世保地区の手話会(みことば会)が訪問してくださり、一緒に手話ミサをささげた。誤解されたくないが、あえて言えば、ろうあ者と共に捧げる手話ミサは、「ユニバーサルデザイン」ではないかと思う。
▼「ユニバーサルデザイン」とは、「だれにでも(子どもにも、高齢者にも)使いやすい形」だと理解しているが、通常のミサの流れは、もしかしたら大人、それも、いつも参加している方々にのみ理解できて、子供たちや、はじめてミサに参加する方々には、ついていけないのかも知れない。
▼その点、手話ミサは動作が入る分、念入りにというか、かなりていねいに捧げていくように思う。年輩の人には唱えている祈りが聞きやすいだろうし、子供たちには手話を通して、場面場面が心に届きやすいのではないか。
▼本来、もっともっと心を砕いて、平常のミサが「ユニバーサルデザイン」である必要があるのかも知れないが。いたく反省。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===