年間第28主日(マタイ22:1-14)

先週「わたしがあなたを選びました」という本を、「詩集」と言い切ったのですが、届いた本を見たら、全体が一つの詩でできた「絵本」でした。思い込みで言ってしまい、申し訳なかったと思います。さらに悪いことには、先週紹介した一節が、たくさんの詩の中の一つという誤解を与えたと思い、二度反省しております。

とは言いましても、先週のことはここで終わりです。過ちは過ちとして、それ以上お説教に引きずるつもりはありません。先週と今週は無関係ではありませんが、今週は今週の招きがある。私はそう思って朗読された福音書に向かっております。

そんなことを考えていましたら、今週朗読された福音が重なりました。今週のたとえ話は、ちょうど半分のところで分かれると思いますが、前半の「招待された客」は、後半には現れてまいりません。「軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という形で、すっかり水に流してしまっています。

水に流したのですから、それを引きずって後半の話を読むことはしなくても良いと思います。ただ、「物語の中で、完全に水に流しましたよ」ということを強調しているくらいに受け止めておきましょう。

さて問題の後半ですが、たとえ話に出てくる王は、招待客をいったん白紙に戻して、さて誰を招待しようかと、白紙の状態から招いておられます。「町の大通りに出て、見かけた人はだれでも婚宴に連れて来なさい」(9節参照)。はじめは、選ばれた客だけで開こうとしていた王子の婚宴でした。それが、図らずも、だれも区別なく、善人も悪人も招待することで、宴会は始まったのでした。この出来事で、王子の宴は、善人も悪人も区別なく招かれる喜びの宴なんだということがはっきりしたわけです。

実はこのたとえ話は、マタイ福音書の時代というものを織り交ぜて描いている節があります。三週にわたって、たとえ話を紐解く相手は「祭司長や長老たち」です。彼らは今週、「先に招待されていた身分のある客」として描かれています。「ある王」とは自分たちが神殿で礼拝していた父なる神、王子とはイエス・キリストのことです。キリストの宴に招待されたのに、彼らはキリストの僕(預言者や、初期のキリスト信者)を迫害し、あるときは殺したのです。

そこで神は、招待者をいったん白紙に戻して、招きを受け入れる人はすべて、善人も悪人も招待することにしたのです。キリストの宴は、先に招いた人(祭司長、長老たち)によってではなく、後で招かれたすべての人(迫害に晒されているキリスト信者)によって祝われたのでした。マタイ福音書を最初に読み聞きした人たちの中には、善人も悪人もいたと思います。けれども、ご自分の御子の宴に、父なる神は誰も拒まず、悪人も招待してくださったのです。

もちろん、ここでだれが悪人かを探し回る必要はありません。すべての人が招かれたということに気持ちを集中すればよいわけです。どんな姿でも、神様は招いてくださる。弱い私でも、たとえば確かめていないことを勢いでお説教してしまう弱い中田神父であっても、招いてくださる。しぜんと、感謝の気持ちが湧いてきます。

では肝心の、イエス様の宴とはいったい何をさしているのでしょうか。それはまず第一に、ミサ聖祭です。「神の子羊の食卓に招かれた人は幸い」と声を上げる宴です。私たちはこのミサ聖祭に、招かれ、牛や肥えた家畜にまさる「御聖体」をいただきます。

次に、私たちが各自でいただく食事が、イエス様の宴となり得ます。食事の後先に、「食前・食後の祈り」を唱えるなら、そこにはイエス様がともにいてくださり、用意された食事を、「私たちの心と体を支える糧」としてくださいます。祈ることで、この食事を、心の糧にも変えてくださるのです。

もっと、生活のあちこちに、善人も悪人もすべて招かれる「席」はあると思います。ある人が朝夕に祈るなら、その一日を神はご自分の「宴の席」に変えてくださって、祝福で満たしてくださいます。ちょっとした奉仕や愛のわざを果たすとき、そこに神はいっしょにいてくださって、あなたの手のわざを恵みに変えてくださる。こうして、生活のちょっとした場所が、神がとどまる「宴席」に変わりうるのです。

一つ問題が残ります。礼服のことです。物語の王は、礼服を身につけずに入ってきた人を追い返します。悪人を追い返したのではありません。善人も悪人も招待されましたが、「礼服」を身につけない人は追い返されたのです。礼服とは、いったい何のことだったのでしょう。

解説では、さまざまな説明ができるそうですが、今回は次のように考えたいと思います。善人であっても悪人であっても用意できる何か、そして、王の心に適う何か、ということです。それは言葉で表すと、「信頼と感謝」ということではないでしょうか。

神は、どんな人でも、今週のミサに、今日の食卓に、この一日に招いてくださる。私が神様の招きに信頼し、感謝の気持ちでそれを受け取るなら、あとは神様が満たしてくださるのです。もしも、ミサのこと、今日与えられる一日にさえケチをつけるのであれば、信頼と感謝の気持ちがないために、私たちは悲しみと嘆きの暗闇に放り出されるのではないでしょうか。

このミサは、今日一日は、イエス様の救いを喜び合う宴の席です。信頼と感謝のうちに受け取り、神様が用意した数々のメニューを味わう人になりたいものです。

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ちょっとひとやすみ
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▼「日は昇り、日は沈む」。何となく詩人になったような気分です。いま二つのことが頭に浮かびました。住んでいる大島に、長崎県最長の大島大橋が開通した瞬間、私は波止場でクロダイを釣っていました。「橋は自分がいなくても開通するさ」そんな気持ちでした。
▼大島を車でひと流しすると、ときどき白黒の幕を張った家に出くわします。不幸がありましたよという知らせですが、同じ日に楽しいことに興じている人もいるわけです。そう、日は昇り、日は沈む。どんなに人が悲しい思いをしていても、全世界が悲しんでいるわけではないし、日本中が喜びにわいている中でも、悲しみに暮れている人だっています。
▼神様はそんな世界をお造りになりました。みんなが笑っているわけではない、みんなが泣いているわけでもない。いろいろなことが同時に、あちこちで起こっている「この世界」を神様がお造りになった。
▼だから、喜んでいる人も愛したいし、悲しんでいる人も愛したいと思います。喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみたい。そんなことを、とある仏式の「告別式」に出席する前に思ったのでした。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===