復活節第2主日(ヨハネ20:19-31)

今日の朗読箇所はトマスが出てくる場面です。毎年、復活節の第2週にはこうやってトマスの箇所を読むわけですが、トマスの霊名(洗礼名)を頂いている私としては、この箇所でお説教するのはたいがいぶりにしてくれないかなあと思ったり、いやいや、この単純な繰り返しを通して、もっともっと出来事の意味を深めていくべきではないだろうかと思ったり、複雑であります。

今年は、私個人としては、「深めていく」ほうに向かいたいと思っています。出来事の意味を深めていくつもりで黙想しましたが、本来単純な仕掛けを、長い説明でややこしくしてしまうのではないかと、そういう心配もないではないですが、信念に従って進んでいきたいと思います。

その単純な仕掛けとは、イエス様の次の言葉です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節参照)。これは見ようによっては単純、また別の見方をすれば、今日の福音全体を包む鍵となる言葉でもあります。少しずつ、考えていきましょう。

「見ないのに信じる人は、幸いである」。そう、その通りです。何の説明もいりません。後世のキリスト信者、たとえば百年後に信仰の道に入っていく人たちは、イエス・キリストを見て信じた人々ではありません。誰かがイエス・キリストを紹介し、導かれて洗礼を受けたはずです。

この人たちは、イエス様を肉眼で見ることなく信仰の道に入りました。そしてここに集まっている私たちも同じです。イエス様のお約束通り、私たちは見ないで信仰に入ったのですから、幸いな人々なのです。

はい、これで終わりです。…と言い切ってしまえば簡単なのですが、話はどうもそれでは終わらないようです。一方で今話したことは確かなのですが、一方では、イエス様の言葉は、もっと深い意味を考えさせるのです。そのことについても触れておきましょう。

さて、トマス以外の弟子たちは、復活したイエス様の出現を目の当たりにしました。戸には鍵がかけてあって、本当は入れないはずでした。それは、建物の扉の鍵が閉まっていたこともあったでしょうし、弟子たち自身の心の扉に鍵をしていたこともあったでしょう。ですが、イエス様はそれらの障害を乗り越えて、弟子たちに復活の喜びを届けに来てくださいました。

トマスは、最初にイエス様の出現に与ることができませんでした。あらためて他の弟子たちと復活したイエス様にお会いするわけですが、見逃してならない言葉があります。それは、トマスが同席していた二度目にも、「戸にはみな鍵がかけてあった」ということです。「私たちは主を見た」と言ったあの弟子たち。主を見て喜んだあの弟子たちは、二度目にも鍵をかけていたのです。

そうなると、話は少し違ってきます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉は、一見するとトマスひとりに向けられたように聞こえますが、じつは、弟子たちすべてに当てはまっていたのです。弟子たちは誰ひとりとして、見ないで信じた人はいなかったのです。もっと言うと、トマスより先に復活したイエス様を見ておきながら、二度目の再会の時にも鍵をかけて心を閉ざしていたのです。まだイエス様の復活を心底信じてはいなかったと言ったら、言い過ぎでしょうか。

そうです。あの言葉は、トマスひとりに仰ったのではなくて、そこにいる弟子たち全員に向けて言われた言葉だったのです。どうしてトマスひとりがやり玉に挙げられるのだろうか、それも毎年、と思っていたのですが、あの言葉は、トマスを通して弟子たちすべてに戒めとして語られた言葉だったのではないでしょうか。

ここまで来て、私にとってはようやく長年来の謎が解けたような感じがしています。別に、他のすべての弟子たちが「見ないで信じた」わけではないのです。復活したイエス様を見たのに、二度目の時にも鍵を閉めて心を閉ざす弱さを持っていたのです。

こうしたことを踏まえて、私自身の信仰を振り返りましょう。私たちは、イエス様によって幸いと言われた人々です。イエス様をじかに見ることなく信仰に導かれました。イエス様は私たちの心に自由に入ってくださって、信仰の恵みを与えてくださいました。

物によらず、証拠に頼らず、私たちの心に自由に入って、聖霊を注いでくださるイエス様をあらためて信じたいと思います。主よ、あなたが幸いと言ってくださったのですから、私はそれを固く信じましょう。

私は今、祈るような気持ちです。ときおり、私たちは弱気になるからです。証拠があれば簡単に信じるのにとか、何人かにひとりは、イエス様を見た人がいればいいのにとか、すぐそういう見える物に頼ろうとするのです。

むしろ、あなたが与えると言ってくださった「平和」を感じることで、やっぱりイエス様はいるんだと、感じさせてください。あなたが与えてくださる「罪のゆるし」を通して、こんな罪な世の中でも神様は導いておられることを悟らせてください。

見えないものを見ているかのように、イエス様の導きについていくことができるよう、ミサの中で照らしを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼ただ今、朝の5時5分前。夜中じゅう考えて、何も浮かばず、机にうつ伏せになってキーボードの型が顔に付き、「ピピピピピ!」とエラー音で目が覚めて、ようやく今書き終えました。まあ、こんな日もありです。毎回ロボットのように、安打製造器のようにお説教が湧き出るわけではありません。たまにはこうして格闘して産んだ子どももいていいと思います。
▼誕生と言えば、愛子様の誕生もおめでたいですが、長崎教区では、このたび4月29日に補佐司教様が誕生します。53歳なので、あまり若いとは言えませんが(スミマセン)、補佐司教様となられる神父様は、かつて大神学院で旧約聖書を講義してくださいました。私、恥ずかしながらこの司教様の講義の7割は居眠りしておりまして、しばしば「どうして君はそんなに居眠りするのかね」と言われたものです(理由なんて言えませんよね)。
▼また、大学の通信教育(慶応大学を通信で卒業しなければいけませんでした)の教務主任でもありましたが、「どうして君は、Cが多いのかね」とも言われまして、「受かっているからいいじゃないですか」と反抗的な態度を取ったこともありました。大変申し訳なかったです。ここに、「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します」。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===