聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)

聖霊降臨を迎えました。聖霊である神さまがわたしたちにどのように関わってくださるのかを考え、学びを得ることにしましょう。

献堂百周年記念は、皆様一人ひとりが力を貸してくださったおかげで、立派な記念の一日となりました。皆さんご苦労様でした。そして本当にありがとうございました。

百周年記念行事の直後に私は司祭の黙想会に参加してきましたが、何人もの先輩方から「ご苦労だったね。立派な式典だったね」とねぎらっていただきました。ふだんねぎらってもらったりいたわってもらったりということは、司祭の間ではあまりないのですが、今回ばかりはあまり言葉を交わさないような大先輩からも「よくやったね」とお褒めの言葉をいただきました。とてもうれしかったです。

私は、百周年は通過点だと思います。これから積み重なっていく日々の歩みが、通過点となった百周年を価値あるものにすると思っています。百周年を通過した後、私たちが信仰のありがたさをもう一度見直し、より積極的にカトリックの信仰を知らせるようにしたいものです。百年を祝った田平教会と、私たちの信仰を、百年たっても自信をもって紹介できないのであれば、何のための百周年であったか?ということになりかねません。

福音朗読でイエスは、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをする」(15・26-27)とおっしゃっています。

16章の「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16・13)を踏まえて考えると、真理の霊が弟子たちに遣わされて、弟子たちはイエスの教えを十分理解し、証しをする人に変えられていくのです。

私たちはミサの中で信仰宣言を唱えますが、12人の弟子たちの時代にはそのようなだれもが共通に持っている信仰のまとめはなかったことでしょう。私たちは信仰宣言を皆で声をそろえて宣言することができますが、弟子たちは私たちが唱えている内容を、ことごとく理解しておく必要があったわけです。

今後たとえば二人一組になって宣教に出かけるとき、同じだけの信仰をことごとく理解して宣べ伝えます。イエスが言われたとおりに、真理の霊が真理をことごとく悟らせるのでなければ、宣教は成り立たなかったでしょう。

同じことは、私たちにも呼びかけられています。私たちも献堂百周年を祝ったものとして、ますます、私たちの信仰が広まるように働きかけをしていきます。私たちも信仰宣言で語られている内容をことごとく悟らせていただかなければ、宣教は無理なのではないでしょうか。

「瀬戸山の風」四月号で、私はこの聖堂が宣教の拠点となるためのヒントを示しました。私たちの中には、カトリック信者とそうでない方との間で結婚の誓いを交わした夫婦がいらっしゃると思います。結婚当初は、カトリックの洗礼を受けるには様々な事情が引っかかる人がいたことでしょう。

ですがもし今、「私たちはもはや結婚当初に抱えていた事情は取り除かれました」そういう夫婦がいらっしゃるなら、私は喜んで洗礼を授けてあげたいと思いますので、どうか申し出ていただきたいと思います。

結婚当初は、自分の親の世話を考えると、宗教を変えるのは抵抗があると感じていた。けれども今は、両親のためには両親の宗教を尊重しながら、カトリック信者になってもよいと考える夫婦もおられるのではないでしょうか。

カトリックの洗礼を受けることについて、両親がいる手前、ためらいがあると思っていた人も、長い時間がたってみると、カトリックになっても両親の信仰を軽んじるわけではないと理解できたなら、それは聖霊の働きだと思います。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」真理の霊が、その人の心を照らして、洗礼の恵みをより深く理解させてくれたということだと思うのです。

真理をことごとく悟らせてくださる聖霊は、今も私たちに働きかけます。私たちは真理の霊に心を開き、導きを願うべきです。百周年を迎えたこの聖堂が、祈りと賛美がこだまし、宣教の拠点となるために、一人ひとりが聖霊に動かされる必要があります。

聖霊は、ただ黙って隣に立っているようなお方ではなく、私たちを変えてくださる力ある神なのです。隣に立っているというよりは、私たちの中から、私たちを造りかえるお方なのです。私たちはもっと聖霊に心を開くべきです。

私たちが聖霊に心を開くなら、田平教会聖堂でまだまだ洗礼を受ける人を得ることは可能だと思います。私たちが聖霊の働きに心を開かないと、百年たっても田平教会の現状は変わりません。田平教会を形作る神の家族、その家族構成がより中身の濃い家族構成になるために、ぜひ力を貸してください。

この聖堂が宣教の拠点となるために、ぜひ皆さんの力が必要です。聖霊が、一人ひとりの心を照らし、必要なことに目覚めさせてくださるよう、取り次ぎを願いたいと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼黙想会を受けてきた。札幌教区の司教様が黙想指導をしてくださった。教区の広さに対して、司祭の数が圧倒的に少ないことに驚いた。全く考えたこともなかったが、北海道には今の3倍くらいの司祭が必要なのではないだろうか。
▼説教を聞いていて思ったのは、司教様に対する接し方が長崎教区とはずいぶん違うな、ということだった。長崎では、司教様が投げかけをすれば、全員ではなくてもすぐに応えようと動き出す司祭たちがいる。札幌教区ではどうもそうではないらしい。
▼「北海道」と聞いて私が思い浮かべるのは「トラピスト修道院」なのだが、トラピスト修道院しか知らない私は、札幌教区のことを何も知らないのだと思う。司教様の話を聞きながら、置かれた状況で使命を果たす困難の大きさに、ご苦労様ですと頭を下げるのみだった。
▼司教様の指名を受けるまで、「まさか」とと思っていたと仰っていた。「選ばれるに違いない」と思っていた司教様のことを思い出し、きっと「まさか」と思っていた人のほうが良い働きをするに違いないと思った。「なるべくしてなった」と思っている人に、神さまは力を貸すのだろうか。
▼献堂百周年が無事に終わった。私も「田平教会の献堂百周年に携わる」とは夢にも思わなかった。私の中には設計図はなかったが、霧が晴れると設計図が見えたような気がした、その体験は味わわせてもらった。

† 神に感謝 †