年間第27主日(ルカ17:5-10)

「わたしどもの信仰を増してください」(17・5)弟子たちはなぜ、このような願いをしたのでしょうか。そこから出発して、イエスが言う「信仰」がわたしたちに備わっているのか、考えてみたいと思います。

司祭団ソフトボール大会に参加してきました。4チーム対抗で、長崎市内チーム、五島チーム、佐世保・平戸チーム、そしてお隣の韓国テグから1チームやって来ていました。聞けば長崎教区とテグ教区は姉妹教区の覚書を交わしているそうです。そこで司教さま同士で話が進み、大会に参加させてほしいということになったということのようです。

試合の結果は、午前中に長崎チームと佐世保・平戸チームが1試合おこない、五島チームと韓国テグチームが1試合おこないました。佐世保・平戸チームは長崎チームに最終回の2アウトまでリードしていたのですが、若手の司祭に逆転3ランホームランを打たれて負けてしまいました。逆転のランナーはたしか山内ケイスケという神父さまでした。

午後からは第1試合に勝った長崎チームと韓国テグチーム、負け同士の平戸・佐世保チームと五島チームの試合でした。長崎チームは昼ご飯、韓国テグチームに缶ビールをしつこく勧めて飲ませたのですが、試合は韓国テグチームが勝利し、今年の優勝チームとなりました。わが佐世保・平戸チームは午後の試合も負けて最下位でした。

わたし個人の成績ですが、第1試合はそこそこ貢献しまして、2回打席が来て2回とも塁に出てホームに帰りました。守備でも失点につながるエラーもなくこなしました。しかし午後の試合バットは空を切り、守備も乱れ散々でした。

このあと教区報に記事を書くのですが、どんなふうに書くか頭を痛めています。「来年は韓国に優勝旗を取り戻しに行く」と書こうと思うのですが、向こうが優勝旗の領有権を主張して譲らなかったらどうしようかと心配しております。実際は心配無用でしょうが。

福音朗読に戻りましょう。弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と言った直前の箇所が関わっています。次のような言葉でした。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(17・4)

エスの言葉を聞いた使徒たちは、「今のわたしたちの信仰では七回赦してあげるのは難しい」と感じたのでしょう。そこで信仰を増し加えてほしいと考えたのではないでしょうか。ところがイエスが示そうとする信仰は、使徒たちの考えている信仰の延長線上にはないものでした。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17・6)この違いは何なのでしょうか。わたしたちにも関わってくる問題なので、押さえておきましょう。

考える材料を示したいと思います。わたしたちには練習や努力でたどり着けるものと、それらではどうしても追い付かないものがあるのではないでしょうか。たとえばプロ野球の大谷選手は、今年ピッチャーとして10勝し、バッターとしてホームランを22本打ちました。

ほとんどのプロ野球選手は、練習や努力を惜しまなければ、ピッチャーとして10勝することはできるでしょう。あるいはバッターとしてホームラン22本打つことは可能でしょう。しかしそれを同時に達成するのは、特別な才能であって、努力や練習では追い付かないのではないでしょうか。何かそこには、天から与えられたものがあるのだと思います。

使徒たちが考える「信仰」と、イエスが言う「信仰」にも、似たような違いがあるのではないでしょうか。使徒たちが描いていたのは、努力や経験によって増し加わる部分で、信仰のある一面だと思います。

しかし根本的には信仰は「神から与えられるもの」ではないでしょうか。「天から与えられる信仰」は、わたしたちが努力や経験では増し加えることのできないものであって、たとえそれがからし種一粒ほどでも、あっと驚くわざをおこなうものなのです。

ちなみに、「天から与えられる信仰」もさまざまあるのかもしれません。「からし種一粒ほど」のものもあれば、「十タラントン、五タラントン、一タラントン」といった違いも考えられますし、「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12・48)ということからも、違いがあると考えられます。

最終的に「天から与えられる信仰」は、誰もが持っているものなのでしょうか。持っていると考えたいです。何年前でしょうか。上五島にお年寄りの神父さまが赴任してきて、上五島地区司祭団の仲間入りをしました。わたしたちは内心「平均年齢が上がるなぁ」とか「ソフトボールの戦力がダウンした」などと勝手なことを言っていたのです。

しかしよくよく考えれば、70歳を過ぎてから転勤して新しい教会に根付くというのは、それこそ「桑の木」に海に根を下ろせと言われてその通りに実行するくらい難しいと思ったのです。経験を積み、年齢を重ねて大ベテランになれば、山から海に住まいを変えるのは簡単になるでしょうか。現実はその反対のはずです。わたしはその大先輩に改めて尊敬の念を持ったのでした。

天から与えられる信仰に、わたしたちは信頼を置く必要があると思います。それは人によっては「からし種一粒ほどの信仰」かもしれません。それでも、わたしたちの努力や経験で積み重ねたものにまさるのです。神が与えた信仰は、あっと驚くわざをわたしたちに行わせます。神により頼むことで、神が与えてくださった信仰は力を発揮します。

わたしができると思うかどうかにより頼むのではなく、神の全能により頼む。こうしてわたしたちは神が与えてくださる信仰を世に示すことができるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼2008年の父の葬儀の時の説教をもう一度読み返してみた。何がきっかけで読み返したのか思い出せないが、読み返して1文字抜け落ちていたので補ってあげた。「ミサを拝んで生きた人でした」と書くべきところを、「ミサを拝んで生た人でした」と表記していた。
▼ふと思い出したのは、何かの知らせだと思う。何の知らせなのかは考えてみたいが、これに関連して前々から思っていることがあって、わたしには何かを知らせてもらう「天賦の才」があると思っている。わたしにとっての「からし種一粒ほどの信仰」である。
▼いつもそうなのだが、間に合うタイミングで何かが示され、間に合っている。何度もこの体験をした。そこで思ったのは「何か与えられたものがあるに違いない」ということだった。同じ天賦の才を与えられた人もいるだろう。どのように使うか、人それぞれだが、わたしは説教を考えるために使う。
▼説教はほとんどが「降りてきたものを書き留め」出来上がったものだ。ある司祭は「説教がいちばん苦労する」と言う。もしそれが、「書き上げる苦労(まとめあげる苦労)」だとしたら、わたしにはそれはない。「降ってくる」から、あとは書き留めれば完成する。
▼もし「苦労」が「降ってくるまでの苦労」だとしたら、わたしもこれ以上ないくらいに苦労してきた。たまには自分の努力と経験で準備して、済ませることもあった。だがそういう説教に限って、どうしてもしっくりこないのである。
▼何かが「降ってきた」ときは、わたしの経験や努力ではないので、納得できる。示されたものなので、わたしの経験を超えていることもある。たまに説教をほめてもらうことがあるが、それはきっと「降ってきたもの」「示されたもの」をうまく展開できたから信徒にも納得できるのだと思っている。説教はわたしの能力でどうこうできるものではない。
▼今週もある場面で語るべきことが「降ってきた」。しばしばハラハラするが、これを生涯続けていけたらと思う。わたしに種まかれた「からし種一粒ほどの信仰」を世に示すために。

† 神に感謝 †