年間第26主日(ルカ16:19-31)

年間第26主日C年は「金持ちとラザロ」のたとえが取り上げられました。金持ちはもっとも遠ざけていた出来事を死後に問われました。わたしたちも、日頃何を遠くに追いやってしまっているか問われているのだと思います。

火曜日は修道院のミサの日ですが、先週のミサ依頼は「敬老のお祝いを迎えた姉妹たちのため」でした。祭壇に上がって「本日のミサは敬老の祝いを迎えた姉妹のためです」と発表したのですが、わたしのメガネが合ってないのでしょうか。敬老者と思われるおばあさんは一人もいませんでした。明日にでもメガネ屋さんに行って、相談しようと思っています。

おばあさんつながりでもう一つ。秋分の日(木)に、信徒発見劇の上五島公演DVDの上映会を行いました。まずまずの参加人数で皆さん喜んでもらえたのですが、一つ残念なことがありました。上映を終えての帰り、一人のおばあさんが玄関で困った様子でした。靴を間違えられて帰れなくなっていたのです。

残っていたのはサンダル一足だけでした。皆さんの中に必ずいるはずです。来るときにはサンダルを履いてきて、帰りはすま〜して靴を履いて帰った人。困っている人がいます。解決できることを心から願っています。

福音朗読に戻りましょう。「金持ちとラザロ」のたとえ話です。金持ちは生きているうちに自分の楽しみのためだけに時間とお金を使いましたが、神はそういう生き方のあげくに死んだ金持ちを拒みました。時間にもお金にも余裕があったのですから、時間もない、お金もない貧しい人々に手を差し伸べる必要があったのです。

そうは言っても、若いうちは自分の好きなことにしかお金をかけません。たとえば病院にお金を使うなんてもったいないと思っています。病院に千円払うくらいなら、焼き肉屋で上ロースを飛び越えて特上ロースを食べるほうがましだと思っています。

ところが自分の好きなことだけにお金をかけたツケは必ず返ってくるものです。わたしがそうでした。3年くらい前でしょうか。東京出張中に足の親指の付け根に今まで経験したことのない痛みが走りました。痛風でした。打ち身とか、切り傷の痛みではないのです。骨をボキッと折ったらこれくらい痛いだろうというような痛みでした。

ロキソニンという痛み止めを薬局で買って五島までは辛抱しまして、すぐ病院に飛び込みました。看護師さんが痛風を疑っています。診察した先生も驚いた様子もなく「立派な痛風です。尿酸値を下げる薬を処方しましょう。お大事に」ということでした。ここでようやく、健康のためにお金と時間を使う必要性に迫られたのです。病気の診断が下る前に考えるべきでした。

このように、人はしばしば、自分からいちばん遠い場所の痛みを分かろうとしないのです。わたしはそれまで病気らしい病気もしたことがなかったので、健康に注意するとか、健康のためにお金と時間を使うなどということは最も意識から遠い事柄だったのです。

たとえ話の金持ちにとっても、貧しいラザロの状態は自分から最も遠い生活でした。だれかの家の食卓から落ちる物で腹を満たすとか、ユダヤ人にとって不浄な生き物とされている「犬」が近寄ってきて、できものをなめている。こんなみじめな生活は、金持ちにとっては目の前で起こっていたとしてもいちばん縁遠い場所の出来事だったのです。

いちばん遠い場所で起こっていることを身近に感じない人は、いつまでたっても目の前の欲望に手を出します。ところがいったんいちばん遠い場所の痛みを知ると、お金の使い方、時間の使い方が変わり、社会全体が恩恵を受ける世の中に変わるのです。

「病気などまったく縁遠い」と思っていた人が痛みを知って初めて健康のためにお金と時間を使い、本当の豊かさをしみじみ感じる。たとえ話の金持ちも、いちばん遠い場所にいる貧しい人たちに富を分け与えて初めて、神の祝福を感じる豊かさにあずかれるのです。

エスのたとえは地上の富にだけ注意を向けているのでしょうか。たとえ話は死後の世界にも及んでいます。そうであるなら、信仰と日常生活についても、目の前のことだけしか見ない生き方をせず、永遠の幸せにつながる生き方に気を配り、永遠の幸せにつながるはずのものを遠ざけたり追いやったりしていないか、考えさせるのです。

多くの人にとって、信仰は日常生活の中でいちばん遠ざけられている事柄かもしれません。一年に一度お墓参りをしてそれで終わりとか、年の初めに手を合わせて幸せを願うのが関の山だとか、そういう人も多いかもしれません。わたしたちの中にも、クリスマスにかろうじてミサに来て終わりという人がいるのかもしれません。

信仰と、それを支える祈り。これらは慌ただしい生活のいちばん遠い場所に追いやられている部分かもしれません。しかしその場所の大切さを知るようになると、お金の使い方、時間の使い方に変化が生まれ、本当の幸せを追い求める人に変われるのです。わたしの祈りを必要としている人を身近に感じることができるようになり、諸聖人の交わりが理解できる人になります。神に何かをおささげすることに意味と価値を感じ、時間とお金を使える人に変わっていくのです。

いちばん遠くに追いやっているものにも気を配る人が、本当の幸せにたどり着ける人です。健康寿命もそうでしょう。カトリック信者としては、信仰に根差した生活を身近に考えてこそ、真の幸せを味わうのです。自分の視界に置きたくない事柄、目を背けている事柄をもう一度よく考えてみましょう。神はこれまでわたしが目を背けてきたことを重大な事柄として最後に問う可能性があるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼広島教区司教として司教叙階を受けた白浜満新司教は、明確な目的を持っていると思ったし、きっと聡明な司教になると思う。機転の利いた挨拶をするし、新司教の見ている視点は弱い人の視線そのものだと感じた。
▼司教に叙階されると「様」になる人が多いと思う。それは司祭に叙階された人が「様」になるのと同じかもしれない。上から目線になり、仕えられることを気持ちよく感じ、そこから遠ざかろうとしない。次第にイエスの模範からも遠く離れていく。
▼新司教にはそんな懸念はみじんも感じられなかった。彼には弱い立場に置かれている人が居場所を感じる懐の深さがあった。「医者を必要とするのは病人」という自覚がそうさせるのだと思う。
▼大神学生時代に体調を崩して休学したことが、仕えられるよりも仕えることを、見失った羊を捜し回ることを学ぶ機会になったのかもしれない。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18・14)きっと、新司教の中でこの声が響ているのだろう。
▼そんな尊敬に値する白浜新司教の話からすれば低いレベルの話になるが、最近ようやく聖書の一節一節は、実際に読んで見つけてこそ、喜びを感じることができると思えるようになった。本当に恥ずかしい話だが、聖句は検索ソフトで見つけるのが手っ取り早いし、わざわざ聖書を開いて見つけなくても同じ聖句に行き当たるのだから変わりはないと思っていた。ところが実際はそうでもないのである。
▼「時課の典礼」の「旧約の歌」の中に申命記が採用されているが、創世記から聖書を読み続け、申命記までたどり着いてみて「あ、ここが聖務日課の箇所だったか」と実感できた。引用箇所が示されているから聖書の開き方を知っていれば造作もないことだが、引用を見て聖書を開くのではなく、出会うまでわざわざ聖書を読んで見つけ出してみた。
▼パソコンの検索ソフトで探せば数秒もかからないことだが、1か月読み続けてようやく該当の箇所にたどり着いたとき、時間をかけてみないと感じることのできない「到達の喜び」を感じた。聖書の通読は地味だが、探していた個所に出会った時の喜びをたまに味わう。その喜びはたとえようがない。

† 神に感謝 †