年間第21主日(ヨハネ6:60-69)

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(6・68)ペトロの信仰告白です。これまで何週かに渡ってイエスは誰であるかを言葉と態度で見て、学んだ弟子たちの代表として、信仰を表明しました。私たちも同じように「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」という信仰を再確認したいと思います。

今週火曜日と水曜日で、侍者と先唱者を連れて五島の福江に行ってきます。五島と言うと上五島下五島もひっくるめて一つの五島と思っている方もいらっしゃると思いますが、上五島のほとんどのひとは下五島の人と交流がありません。

下五島の人も上五島の人や暮らしぶりを知りません。同じように上五島で生まれ育った私は、下五島の地理をまったく知りません。五島にいながらそういう状態でしたので、この機会に下五島のことを学んで帰ろうと思います。

「五島の福江に行くそうですね。ついでに野崎島のレンガの教会の写真を撮ってきてください。」これは一つの例ですが、福江から野崎島にはついでで行けるような距離ではありません。私自身、下五島についての知識は、似たようなものです。ぜひ頭の中に地図を描いてきたいと思います。

かつて私は、五島に生まれたことをひどく負い目に思っていました。都会に生まれていたら、私はもっと社会的に成功していたに違いない。そう思っていたからです。五島でとれた魚は都会に持っていかれ、五島の人が食べるのは売れ残りの魚だった記憶があります。五島の人が汗水流して育てたものを食べるのは都会の人。だから五島は嫌いだとしんけんに思っていたのです。

今はどうか。今は考え方が変わりました。五島に生まれたから、都会の人がたまに体験したいという田舎暮らしを知っています。五島の信仰も、古臭いものではなく都会に多大な影響を与えることのできる宝だと知りました。島本大司教様、前田枢機卿様、白浜司教様、これら高位聖職者は都会に影響を与えた五島の信仰の結晶です。

捨ててしまいたいとさえ思ったものの中に宝物があった。私にとってのペトロの信仰告白は「わたしたちは五島を捨ててどこに自分の原点があるでしょうか」ということです。娯楽も少ない、情報も少ない、生活も選べない。そんな環境でしたが、かけがえのない宝をいただいたのだと思います。ここまで誇りに思えるようになったのは最近のことです。

福音朗読、イエスと弟子たちに不協和音が生じ、ある者たちはイエスを離れてしまいました。朗読で読まれた場面は、一日の出来事ではないかもしれません。何年、何十年という教会の始まりの時期に起こった分裂を、一日の出来事の中に埋め込んだのかもしれません。

弟子たちの中には、自分が弟子である源泉がイエス・キリストであるにもかかわらずイエスを捨てて、別の道を歩み始める者も現れました。それでもペトロのようにイエス・キリストのもとにとどまる弟子は、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」この言葉をそのたびに確認してイエス・キリストにとどまったのです。

私たちは一時的な思いで故郷を否定したり捨てたりします。私を形造ってくれたものなのに、自分と結びつけたくない時期があるわけです。故郷の良さを理解するには若すぎるということもあるでしょう。理解できる感性が育っていないこともあるでしょう。残念ながら、故郷を否定する時期を多くの人が通っていくのです。

信仰においても私たちは同じ経験をします。信仰の良さ、ありがたさを一時期否定し、捨ててしまうことがあります。信仰に頼らなくとも自分で生きていける。信仰は卒業した、信仰は幼い頃に一生涯分務めを果たした。いろんな口実を設けて信仰を遠ざける時期があります。

ですが、私たちの始まりは神なのです。ここに集まっている人は、そのことを理解しています。そして自分の信仰を言い表しに来たのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(6・68-69)

いのちを与えてくださったのは神です。ですから出発点も神です。神に始めを与えていただいた人生、どこに行くというのでしょうか。私たちはこの信仰を表明しにここに来たのです。そしてミサに与り、御言葉と聖体をいただき、生活に戻って、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と繰り返しながら日々を送るのです。

ある時期、信仰を否定し、捨てた人も、その信仰が私たちの出発点であり、宝物のある場所だと再確認できるよう願いたいと思います。私たちが何度も繰り返し「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」この言葉を口にするなら、遠ざけた信仰の宝を見直してくれるかもしれません。

私たちも繰り返し思い出して、ペトロの信仰告白に続きましょう。そして私たちの信仰告白に続く人を、私たちも育てましょう。信仰の伝達は、実はそれほどたやすいものではないからです。

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ちょっとひとやすみ
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▼司祭の性的虐待がニュースでも取り上げられる事態となってきた。個人の傾向も原因にあるだろうが、神学生時代の養成のあり方にも問題があるかもしれない。男性だけの共同生活で歪む部分があるかもしれない。フランシスコ教皇も心を痛めておられる。加害者、被害者、どちらのためにも祈りたい。
▼お勧めいただいた日本語変換ソフトも、能力の限界を感じている。最終的にはATOKを買うことになるかもしれない。具体例は控えるが、同じ読みをする漢字を果てしなく検索させられ、疲れることがある。「文脈から考えてはくれないのか?」と思う場面があり、限界に来ている。
▼ただ問題は、ATOKだけ買うのと、ワープロソフト「一太郎」と一緒に買うのと、どちらが良いか、という問題だ。一太郎はほとんど使用する場面はないからATOKだけで構わないのだけれども、ATOKだけだとお得感はない。
▼「お得感を求めて買うのか?」と言われるわけだが、それがまったくないとも言えない。どこかに良い解決法がないだろうか。少し古めの「一太郎」をインストールしたら、「すでに別のPCで認証をされたものなので、使えません」となるのだろうか。パソコンソフトには「ダビング10(テン)」という仕組みはないのだろうか。
▼持っている物の価値は下がる。これは自然の流れだ。たまに、「価値が上がる」ものもある。両方あれば、あなたはどうするか。私は「価値が下がる」ものを、価値を見つけてくれる人に手放す。近いうちに実行することになりそうだ。

† 神に感謝 †

年間第20主日(ヨハ6:51-58)

ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」(6・52)ユダヤ人のつぶやきは、現代人も含めイエス・キリストという食べ物を知らない多くの人のつぶやきでもあります。私たちもユダヤ人のつぶやきを出発点に、今週の糧を頂きましょう。

ユダヤ人のつぶやきに答えを得るヒントを見つけました。共観福音書の中に、「耳」に関連する次のような戒めがあります。「耳のある者は聞きなさい」この表現がマタイ・マルコ・ルカの中に出てきますが、これは今週のユダヤ人のつぶやきに答える強力な説明となるでしょう。

もちろん、耳が備わっていない人はいないわけですから、この場合「聞く耳のある者は聞きなさい」ということです。マルコ4章9節やルカ8章8節がそれに当たるでしょう。同様の箇所をマタイはあえて「耳のある者は聞きなさい」とだけ書きます。13章9節がそれに当たりますが、間違った読み方をするはずがないという前提でしょうか。

いずれにしても、イエスが「耳のある者は聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」と念を押す時、話を聞いている人々は準備が必要になります。耳は備わっているのです。ですがあなたの耳はイエスの言葉を謙虚に聞く状態になっていますか?と問われているのです。

同じように、イエスがご自分をパンとして示す時、聞いている人はこのパンを食べる口を用意していなければならないのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6・51)

「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」ユダヤ人たちは口は備わっていても、生きたパンを食べる準備ができていませんでした。いつの時代でも、準備がととのっていなければ天から降って来た生きたパンに触れることはできません。

ときおり耳にするでしょう。葬儀ミサの中で中田神父は聖体拝領に移っていく直前、参列者の皆さんに「聖体拝領の準備ができている方は列にお並びください」と案内をしています。イエスという生きたパンに触れるためには、心と体がふさわしい状態である必要があるのです。

私たちはこのミサに、生きたパンに触れるために、集まりました。命の糧をいただくのに、どんな準備をしたでしょうか。列聖されたマザー・テレサは、最も小さな人にお仕えする時、イエス・キリストをいただくと言っていました。人に示した愛や、ゆるしで心の準備をすることもできるでしょう。イエスは福音朗読を通して、「食べるにふさわしい口のある者は食べなさい」とおっしゃっています。

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ちょっとひとやすみ
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▼一つのニュースに釘付けになった。アメリカの有名大学医学部が、次の年度から入学した生徒すべての学費を免除すると発表した。報道によると、その大学の学費は年に610万円だと言う。太っ腹だなぁと思った。もちろん原資のあてがあるのだろうが、それにしても世界中の注目を浴びるに十分なニュースだった。
▼これを召命の話と結びつけたい。自分自身振り返ってみると、少なくとも中学高校を長崎の学校に行かせてもらったのだから、親の負担は地元の中学生高校生以上に重かったと思う。長崎からの行き帰り、必ず船に乗らなければならない。仕送りもしてもらった。余計な本も買ったかもしれない。
▼もしこれが、司祭たちの寄付で「神学性が小神学院を卒業するまでの交通費・学費は免除される」となれば、相当のアピールになるのではないか。先に触れた大学の医学部も、入学した新入生500人が全員医者になるわけでもないだろう。それなのに何の線引もせずに免除している。似たようなことが召命の道にあってもよいのではないか。
▼もちろん召命の道は信仰の道だから、経済的問題だけではないだろう。けれども家庭だけが応援するのではなく、司祭真っ先に、神学性を見える形で支えることは、信仰の面でも経済的なのではないだろうか。
▼福岡の神学校に進学した時、自分たち日本の大神学生が海外の援助を受けていることを初めて知った。一つの例だが、ドイツのあるご夫婦に手紙を書きなさいと言われた。生徒一人ひとりが海外の多くの支援者の誰かに支援のお礼の手紙を割り振られていて、日常生活のことや、召命への決意や、恩人のために祈っていることなど、一通り書いたものを担当の教授が翻訳して送っていたようである。
▼一度、手紙の書き直しを命じられたことがあった。教授の言い分はこうである。あなたの手紙では、日本の神学校に寄付をしてよかったと感じられない。それは文章の内容だけでない、司祭を目指すふだんの生活が文章に現れるのだという注意だった。寄付に甘えることなく、真剣に司祭への道を求めるようになった。

† 神に感謝 †

聖母の被昇天(ルカ1:39-56)

聖母被昇天の祝日、この祝日をどのように祝うのか、そこから広げて、私たちはふだんのミサをどのように祝うようにすれば、より積極的にミサに参加する気持ちになれるか、考えてみたいと思います。

13日月曜日に、ご年配の男性がミサを頼みに来ました。この日午前中は司祭団ソフトの練習に召集され、若い司祭たちに混じって汗をかき、ヘトヘトになって司祭館でひっくり返っているときでした。もう少し詳しく言うと、シャワーを浴びてそのままの状態で畳にひっくり返っていたのです。

慌てて服を着て、「よりによって月曜日に」と思いながら玄関に立つと、ご年配の男性が二人立っていました。「〇〇と申します。墓参りと、おばを訪ねにやってきました。ミサをお願いします。」ミサと言ったので急に私の顔はにこやかになり、「ああそうでしたか。暑いのに大変でしたね」とねぎらいの言葉をかけました。

この方々が訪ねに来た人は、私がお見舞いしている人でした。苦労した時代に良くしてもらって、歳をとった今でも当時のように「お姉さんお姉さん」と言うのだそうです。

ミサは、そうしたお世話になった方を含めた意向のミサでした。私はここで、ふと考えたのです。私たちが小さい頃に「お姉さんお姉さん」と慕った人は、いつになっても訪ねていくし、いつになってもお姉さんとして慕うのではないだろうか、ということです。

今日私たちは聖母被昇天の祝日を祝っています。マリアが体も魂も天にあげられたことを祝う日です。イエスと最も深く結ばれていたマリアが、真っ先に復活の栄光にあずかったことを祝う日と言っても良いでしょう。ただ実際には、体も魂も天にあげられたことを祝いに行きましょうと集まった人はどれだけいるでしょうか。あまりいないかもしれません。

それが悪いと言っているのではありません。私が言いたいのは、私たちはもっと素朴な理由から、今日の聖母被昇天のミサに与っているのではないでしょうか。たとえばそれは、守るべき大祝日だからかもしれません。

残念ながら、ある時から日本の教会は聖母被昇天を守るべき大祝日から外しました。今はクリスマスと、神の母聖マリアの二つだけが守るべき大祝日です。あと守るべきなのはふだんの日曜日です。

先ほどのミサに行く動機ですが、もっと単純な理由で集まっているかもしれません。「マリア様のお祝いだから」この理由で集まる人も多いことでしょう。マリアを慕い、マリアに親しんで日々を過ごしている。だからマリア様のお祝いには参加したい。この考えは、まさに小さい頃から姉と慕った人を歳をとってからも変わらず大切にし、欠かさず訪ねに行く姿ではないでしょうか。

私はこうした考えが、聖母被昇天を祝うすべての人に浸透したらいいなと思っています。ふだんから聖母マリアに親しんでいるから、集まる。家庭でロザリオをしている人は特にそうでしょう。また家庭祭壇にマリア様を飾ったり、マリア様を額に入れた絵を飾ったりする家庭も、マリア様に親しみを感じるきっかけになるでしょう。こうしたふだんの聖母マリアとのふれあいが、「マリア様のお祝い日だから集まる」この考えに行き着くのだと思います。

同じように、ふだんの日曜日のミサに親しむためには、「イエス様のお祝いだから集まる」そんな素朴なきっかけが浸透してほしいなと思うのです。ふだん家庭で祈る時、イエス・キリストに呼びかけて祈ることが圧倒的に多いはずです。

家庭祭壇に聖母マリアだけ飾ってイエス像を飾らない家庭もいないでしょう。イエス像も飾ると思います。そこから、ふだんイエス・キリストに親しみを持つ人に育っていけば、「日曜日はイエス様のお祝い日だから」この理由だけで教会に集まることができるのではないでしょうか。

福音朗読でマリアは神をたたえて、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1・51-53)とも言いました。

思い上がる者、権力ある者、富める者は皆、12日の日曜日に話した通り手の甲を上にして人を呼びつけ、上から掴み取り、命令する人たちです。神はそのような者の間を通り抜けて、身分の低い者、飢えた人、そのほか手のひらを上にしている人々に近づくのです。

マリアもまた、小さくされた人の代表です。人は手の甲を上にしている人を慕っては行かず、手のひらを上にする人に親しみを覚えるのです。マリアを慕う人として集まった私たちは、これから出会う人々に、「私たちはマリア様を慕っているので教会に集まるのです。私たちはイエスを慕っているので教会に集まるのです」と知らせましょう。

マリアを慕って教会に集まる人が増えれば、平和はもっと身近なものに、現実的なものになっていくはずです。

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ちょっとひとやすみ
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▼歳を感じ、ショックを覚えた。ここで天に帰るのかとさえ思った。風呂に入り、浴槽の湯を抜いて、タイルの床に片足を掛けたときだった。足が滑り、倒れそうになったので浴槽の足で踏ん張った。するとその足も滑り、さらに手をついて支えようとしたら手も滑って肘を強く打ち、肘の皮膚が切れて出血した。
▼「風呂場で転んで怪我をする」とか「風呂場で溺れて命を落とす」といったことは年寄りに起こるもので自分は関係ないと思っていたが、初めて足を滑らせ、痛い目にあってみると、他人事ではないとつくづく思う。歳を取ったのだと思い知らされ、ショックを覚えた。
▼それから数日して、徐々にすねとか、他にも痛めている場所があることが分かり、本当に悲しくなった。歳を取ったことは認めるが、足が滑るような年寄りだとは思っていなかったので、今回のことはとても落ち込んでいる。
▼これと変わらないくらい落ち込む出来事が同じ日に起きた。風呂で足を滑らせた時点で「今日は用心しろよ」という合図だったのに、それを無視したことが悔やまれる出来事だ。またも江迎中学校近くの高架下。この時は佐々からの帰り道だったので、通行時間の規制はないのだが、高架下をくぐって県道に出る時、必ず一時停止が必要な場所である。
▼月曜日で、司祭団ソフトの練習でみっちりしごかれ、疲れて少しでも早く帰りたい気分だった。軽トラックであったこともあり、坂道発進が苦手な私は、オートマでない車で坂道発進をして後続の車に迷惑をかけたくなかった。そこでじわっと減速しただけで一時停止を通過し、県道に出た。「警察は見たところいない。大丈夫だ」そう思って後ろを振り返ると、私の直後に警察車両がピッタリくっついていた。
▼頭が真っ白になり、「これはもう死んだ」と思った。天に昇ったかと思った。ところが警察車両から「止まれ」とか車のナンバーを呼ばれることもなく、ただピッタリくっついてくる。落ち着いて、「マツモトキヨシの先の分かれ道で警察車両をかわそう」そう思って自分は右折ラインに移動した。
▼それなのに、警察車両も右折ラインに並んできた。警察車両は直進するに違いないと思って右折ラインに乗ったのに、なぜ私の後ろに並ぶのか。ここからがオチだが、この警察車両はただ単に江迎警察署に帰って昼を過ごそうとしていただけだったのだろう。側道から合流した私が一時停止違反をしたことも知らなかったのかもしれない。
▼仮に私の一時停止違反を知っていたとしても、彼らは昼の時間をゆっくり過ごすことを優先し、やり過ごそうと思ったのかもしれない。一日に二度、昇天しかけたことは、「暑くて判断力が鈍っていたとしても、用心を忘れてはいけない」という強い警告だったのだと思っている。

† 神に感謝 †

年間第19主日(ヨハネ6:41-51)

聖母被昇天直前の日曜日、暑くもあるし、今日か明日か気になることもあるし、説教は短めにしたいと思います。

何かを手にする時、先を争って手にしようとする場合と、順番に沿っていただいたりする場合とでは、手の出し方が違うと思います。先を争って手を出す時は、手の甲を上にして、上から掴もうとするはずです。

一方、順番に沿って何かを手にする時、それは配られたもの、配達されてきたものですから、手の甲を下に、手のひらを上にして受け取るはずです。

問いかけたいのは、今あなたが手にしようとしているものを、あなたは手の甲を上にして掴みと取ろうとするのですか、手のひらを上にして、大切にいただこうとするのですか、どちらですか?ということです。

今週の福音朗読で、イエスは「わたしは命のパンである」(6・48)とはっきりおっしゃいました。ここで考えてみましょう。イエスという命のパンを手に入れるのに、あなたは先を争うように手の甲を上にして手を伸ばし、掴み取ろうというのですか。それとも手のひらを上にして、与えられるその時を待って、いただくのですか。どちらでしょうか。

私たちが聖体拝領をするときの動作を思い出しましょう。司祭が「キリストのおんからだ」と言って聖体をかかげます。私たちはどのように手を準備するのでしょうか。先を争って掴み取る手の出し方ですか?まさかそんな人はいないでしょう。

聖体拝領の手の形が、私たちに命のパンであるイエスとの向き合い方を教えてくれているのです。命のパンに私たちがあずかるためには、順番を待つ人のように、心を整えておく必要があるのです。もっと言うと、順番を待つことすら横に置いて、命のパンが手のひらに授けられるその時をじっと待つ。そんな心の準備が必要なのだと思います。

残念ながら朗読に登場する群衆は、手を伸ばし、手の甲を上にして、先を争って掴み取ろうとする人たちになってしまいました。手の甲を上にして争って集まる人たちから、命のパンであるイエスはこぼれ落ちていくのです。

神の恵みを待ち望む時、祈りに答えてくれる神に顔を上げる時、照らしを求めている時、苦しみの意味を教えてくださいと願っている時。あらゆる時に私たちは手のひらを上にして、手の甲を下にしていなければ、受け取り損ねるのです。

私はこれまで、命のパンをいただくためにイエスとどんな向き合い方をしてきたでしょうか。マリアは私たちのあるべき姿を間もなく祝う聖母被昇天で示してくださるでしょう。恵みをいただくふさわしい心を準備できるよう、主に照らしを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼誰かアリの専門家がいないだろうか。2度にわたってひどい目にあった。粒の小さなブドウ(名前を知らない)を一房食べて、皮を勉強机のゴミ箱に捨てたままにしていた。ゴミ箱は高さ50cm。翌朝ゴミ箱を見たら、見事にアリにたかられていた。
▼仕方なく、燃えるゴミの袋の口を縛り、アリと一緒に台所のゴミ入れに投げ込んだ。しばらくはアリがたかったことを忘れていたが、また別の時にアップルジュースを飲んでゴミ箱に捨てた。ゴミ箱の高さは50cm。翌朝ゴミ箱を見たら、見事にアリにたかられていた。
▼言い訳だが、アリの見ている地平からすると、ゴミ箱の入り口は超高層ビルの屋上のはず。なぜその場所まで這い上がり、甘いものを見つけてたかることができるのだろうか?どれかが甘い汁を吸えば次のアリと連絡を取り合い、隊列を調えてやってくる。まったく油断も隙もない。
▼想像してみた。甘い香りが、空気中に拡がり、床をウロウロしているアリがその成分を受容する。あちこち情報を巡らせて、床と同じ高さでなく、高い場所から降りてきた成分だと判断。そこで登ることのできる場所はすべて登り、たどり着いたということか。
▼現代はドローンもある。ひょっとしたら、アリが利用しているドローン(ハエとか、蚊とか)を駆使しているのか。お互いに利益を分け合って、それぞれが生き残る作戦か。そんな他愛のない想像しかできないが、誰か専門家がいたら、興味があるので聞かせてほしい。

† 神に感謝 †

年間第18主日(ヨハネ6:24-35)

今週の福音朗読で群衆が問いかけ、イエスが答えるやり取りが出てきます。群衆とイエスの、しりとりのような言葉のやり取りはまったく噛み合っていません。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」「わたしが命のパンである」この噛み合わないやり取りが今週の学びを与えてくれます。

お願いして、司祭館の西側にゴーヤーで目隠しを作ってもらいました。緑のカーテンで日陰の恩恵を受けるのはもう少しかかりそうですが、ゴーヤーの実はいくつかぶら下がりはじめました。何個ぶら下がっていると思いますか?「5」(ゴーヤー)です。涼しくなったでしょうか。

さて群衆とイエスの噛み合わない対話の最後はこうでした。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」「わたしが命のパンである」これは、イエスが招く場所にたどり着けない人間の、変わらない姿なのかもしれません。多くの人がいろんな場面で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と問いかけるのですが、考えの及ばない私たちは、命のパンであるイエスにたどり着けないのです。

主任司祭が切に「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願い求める場面があります。それはカトリック信者の最期を看取り、神様のもとに送り出す「葬儀」の場面です。私の葬儀ミサの説教は、8月号の「瀬戸山の風」にも触れましたが、「この人はどのように神とつながって生きてきたか」「この人はどのようにこれから神とつながることができるか」この一点に集中しています。

亡くなった人が信仰生活の中でどのように神とつながってきたか、関係者に聞くこともあります。ですがたいていの場合、私は説教を準備する時間の中で、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願っているのです。

もう少し付け加えると、「この人があなたからいただいたパンは何ですか。どこで命のパンをいただいて生きていた人ですか。私がそれを見送る人々に知らせますので、どうか教えてください」そう言いながら説教を考えているのです。

ただ、主任司祭もまた、考えの及ばない人間の一人に過ぎません。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と熱心に問いかけますが、いのちのパンであるイエスとの関わりにたどり着けない時もあります。すると葬儀の説教の中では「私の力が及ばず、本当に申し訳ない」そんな気持ちです。

これからも私は葬儀の説教で、できるだけ一人ひとりのことを思い巡らしながら「この人は命のパンを携えて旅立っていきました。この人はこのような形で、命のパンをいただいていたのです」と紹介して送り出したいと思っています。

私自身が身近に感じる場面を紹介しましたが、一人ひとり自分の生活に当てはめてください。たとえば、家庭で忠実に朝晩の祈りをしている家族がいらっしゃると思います。お祈りをして、私たちが求めていることは何でしょうか。家族の健康でしょうか。家庭の平和でしょうか。それとも、別の答えでしょうか。

何か学び始めている人もいます。カテキスタ養成講座に参加している人たちはこれに当てはまります。学びながら、何かの答えを求めていることでしょう。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。もちろんイエスの答えは「わたしが命のパンである」なのですが、それが予期せぬ答えだったらどうでしょうか。

もしも、予期せぬ別の答えだとしたら、私たちは受け入れることができるでしょうか。私たちはか弱い人間なので、イエスの示す答えと噛み合わないことがあり得るわけです。「自分はそういう答えを考えていませんでした」と。

けれども「予想と違う」と言っている私たちと「わたしが命のパンである」と言われるイエスと、どちらに合わせるべきでしょうか。私たちがイエスの答えを驚き怪しまないために、次のような心構えが必要です。「イエスが与えてくださるものなら何でも。」パンをくださいと願う私たちにどんな答えが示されようと、私たちは受け入れる。そんな心構えが必要だと思います。

エスは命のパンとしてご自身を私たちに与えてくださいます。それが癒やしの奇跡を与えている姿であるか、十字架上で命をささげている姿であるか、私たちは選べません。「イエスが与えてくださるものなら何でも」そう心に決めましょう。どの場面のイエスであっても、私たちに必要なものを与えてくれる命のパンなのです。

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ちょっとひとやすみ
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長崎新聞に、「五輪教会のキリスト像が傷つけられる」という記事が掲載されていると教会案内所の人に教えてもらった。十字架像が置かれている祭壇の奥は、一般的に会衆席より数段高くなるように段が設置されている。そこに侵入してイタズラをするのは悪質である。
▼一般の日本人は、段差をつけた場所を見れば「ここは特別な場所として設定されているのだな」と思い、勝手には踏み越えないものだ。見ている人がいてもいなくても、心の中で「越えてはいけない所」と考えるものだ。どうしてキリスト像のある境内内の祭壇まで踏み込んだのだろうか。
▼以前長崎市内の教会で、祭壇の聖櫃を荒らされたことがあった。祭壇を会衆席と分けていることで、「ここはさらに聖なる場所です」と、構造でそれを表そうとしているのに、どうしても伝わらないのだろう。残念でならない。
▼こうした人たちは、聖堂内でどんな時間の過ごし方をしたのだろうか。「キリストなしでも生きていける」そんな時間の過ごし方をしたのだろうか。壊したのはキリスト像の一部かもしれないが、壊されたのは実は「キリストなしには生きていけない」そう思う多くの人々の心だった。
▼物は、修理すればほぼ元通りになる。だが傷ついた心は、簡単には修復できないことを知るべきだ。正直に名乗り出て、関係者に謝罪し、与えてしまった心の傷を癒やすためになにか償いをしてほしい。償いは、心の傷を癒やすのに人間ができる数少ない道だ。

† 神に感謝 †

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)

年間第17主日典礼暦B年の福音朗読の流れから外れていますが、ペトロの信仰告白に至るまでの奇跡物語の一つとして捉えてみたいと思います。選ばれたのは「五千人に食べ物を与える」奇跡です。単にパンを増やした奇跡としてではなく、「いかにして五千人に食べ物を与えるか」このことに焦点を当てて考えることにしましょう。

与えられた朗読をざっと見渡して、物語全体に味をつけているのはどこでしょうか。イエスが言われた言葉や行動が、物語全体に味付けをしている、出来事に意味を与えているわけですが、どの言葉でしょうか。どのような行動でしょうか。

私はこう考えます。イエスがフィリポにかけた言葉が、これから起こること全体に関わる味付けしていると思っています。それは6章5節「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」ここだと思います。

すると、その後に起こる出来事は初めの言葉と比べれば、その次になるような重みの出来事かもしれません。たとえばパンが増えたことをことさら強調していないのも、ヨハネが何を重視しているかを暗に示しています。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」イエスは明らかに、群衆に食べ物を与えようとしておられます。さらに「どこでパンを買えばよいだろうか」この言葉も気になります。パンを買う場所が、いくつもあるとは考えにくいです。

小店とか、郊外にあるショッピングセンターとか、専門店とか、そういう店の区別ではなく、「この人たちに食べさせるパンを与えることができるのはイエスただ一人である」ということを、どうすれば気づかせることができるだろうか。そういう意味ではないでしょうか。

エスは弟子たちに買い出しに行くよう命じることもなく、その場で大群衆にパンを与えます。しかも、有り余るほど与えました。こうして、「イエスこそ、まことのパンを与える方である」ということを示したのですが、弟子たちは理解が及ばなかったかもしれません。ただ弟子たちはのちにはっきりと理解することになります。

「こう言ったのはフィリポを試みるため(であった)」何を試そうとしたのでしょうか。何が試されているのでしょうか。参考ですが、フィリポは弟子たちの中で抜きん出た存在ではなかったようです。ヨハネ福音書の別の箇所で次のようにイエスに言われています。

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハネ14・9)このフィリポに私はとても親しみを感じます。フィリポが試されていた事柄は、私たちが試されている事柄かもしれません。どんなことでしょうか。

私が考えたのはこうです。「イエス・キリストを与えなければ、この人たちに食べさせることはできない。」この答えにたどり着くかどうかを、フィリポはじめ弟子たちは試されていたのではないでしょうか。同じように私たちも、この人たちに食べさせるには、イエス・キリストを与えなければならないのです。

ところで「この人たち」はどこにいるのでしょうか。福音朗読ではイエスのもとに集まった大群衆でした。私たちにとっての「この人たち」は誰なのでしょうか。私は、「イエス・キリストを必要としている人々」だと思います。

ミサをささげる司祭にとって、「イエス・キリストを必要としている人々」とは皆さんのことです。説教によって神の言葉のパンを分け与え、聖体の秘跡によっていのちのパンを分け与えます。司祭が人々の中に分け入った時は、イエス・キリスト抜きで生きていけると思っている人々すべてが「この人たち」です。この人たちにもパンを与えなければなりません。パンは詰まる所イエス・キリストですから、司祭の生き方、接し方、声のかけ方で何千人もの人にイエス・キリストというパンを与えるよう召されているのです。

ただ司祭だけが、この使命に召されているのではありません。皆さんはミサを通して、みことばのパンと、いのちのパンを頂いたのです。それはまず、あなたのためのパンですが、弟子たちが差し出した五つのパンでもあるのです。人々と分け合う時、数えきれない人々が食べて満たされるほどの豊かさを持つパンなのです。

近くに、いのちのパンを分け合える人がいないでしょうか。同じ屋根の下に暮らしながら、いのちのパンに触れたことのない人がいないでしょうか。聖体のパンはまだ分け合うことができなくとも、みことばのパンをその人と分け合えるのではないでしょうか。

エスは弟子たちが「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6・9)と言った元手を使って、数えきれない人をご自分のもとに引き寄せ、満たしてくださいました。ここにいる二百人がそれぞれ二人とみことばのパンを分け合ったら、四百人の人が同じパンに触れることになります。その積み重ねがあれば、私たちも五千人にイエスのパンを分け与える人なのではないでしょうか。

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ちょっとひとやすみ
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▼世の中にはサボる人間とサボらない人間がいると思う。それは「プロセスが大事だ」と考える人と「結果が出ればプロセスは問わない」と考える人がいるのと同じだ。私はサボる人間で、「結果オーライ」の人間である。
▼だから、サボらない人、プロセスを重視する人とは合わなかったりぶつかったりする。まぁでもぶつかることで磨かれたり危険な角が取れたりするのだから、違う考えの人は大切な人、出会うべき人だと思う。「そう思えるようになった」というのが正しいか。
▼もはや締め切りも目の前に迫り、一歩も引けなくなってようやく仕事に取り掛かる。もっと計画的に、少なくとも締め切りを気にしない時期に、依頼されていることを果たせばよいのに。分かってはいてもそうできないのがありのままの姿だ。
▼「釣り」と「畑仕事」の比較に似ているかもしれない。本業にしている方々には「そんなことはない」と言われるかもしれないが、「釣り」は一日中真面目に釣っていても釣れない時は釣れない。魚は食べたいときしか口を動かさないからだ。
▼ところが畑仕事は、やろうと思えば一日中することが見つかると思う。ゴーヤの苗を植えてもらい、日々成長する姿に驚くが、苗は「そろそろ帳尻を合わせるために成長するか」などという計算をしない。日々、寝起きする間に成長していく。だから畑仕事をする人は、休まず働いても楽しいのだと思う。
▼結果が大事なこともあり、過程が大切なこともある。両方に目を配る。それが本当の上に立つ人、多くの人に仕えるために選ばれた人の取るべき態度だ。

† 神に感謝 †

年間第16主日(マルコ6:30-34)

使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(6・30)今週年間第16主日の福音朗読はこのように始まっています。先週どのような指示を受けて出かけていったのかが語られていました。一週間も経つと、なかなか思い出せないかもしれません。今週は先週の流れを思い出すところから出発しましょう。

大阪の前田枢機卿様による補佐司教叙階式に参列してきました。司教座聖堂はエアコンのない聖堂でした。もし私たちがこのミサをエアコン切って挙行したら、逃げ出す人が出てくるかもしれません。そんな暑さと戦いながら、前田枢機卿様は立派にご自身の二人の補佐司教を叙階して、喜びあうことができました。

ところで前田枢機卿様には、私たち田平小教区からのお祝いを届けることになっていたので、忙しくなる前にと思い、ミサの1時間前に大司教館を訪ねたのです。すると受付の人がいたので、お祝いを渡したいと伝えると、「おつなぎできません」とあっさり断られました。「そんな〜」と思ったのですが、別の先輩から「前もってアポイント取らなきゃ」と諭されました。私たちの考えが甘かったのですが、叙階式後に無事にお渡ししてきました。

司教様は本当に大切な牧者です。司教様の務めは教会法の中に関連する法令が55項目ありました。その中には、たとえば教区司教の務めがありまして、教区司教は教区民をこのように導かなければならないとか、教区内の司祭たちをこのように導かなければならない、そういう項目もあります。

司教様は司祭と教区民を導かなければならないわけですが、教会法の中で書かれていることは法律の面から見た務めで、司教様は教会法によって教区民や司祭に、牧者として教え導き、励まし、時には忠告したり罰を与えたりもするわけです。それは父親が子供に対して教え導き、時には叱ったりするのと同じことです。

親しくさせていただいた神父様が、このような重い務めを引き受け、補佐司教様になった姿を見て、大変だなぁと改めて思いました。あの暑さの中で司教に叙階されたことで、火で精錬された鉄のようになったのかもしれないと思いました。

さて福音朗読ですが、先週十二人がイエスに派遣される場面では、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6・12-13)と結ばれていました。

十二人はイエスの権能を授かって恵みを届けることと、「悔い改めさせる」ためにも出かけました。教え導くだけではなく、時には戒めたり警告したりもしたのです。これはまさに、現代の教会法が司教様に求めている務めに通じるなぁと思いました。

今週の朗読は、その十二人が戻ってからの話です。彼らは精神的にも肉体的にもそうとう疲れて帰ってきたのだと思います。イエスは彼らに休みを取らせます。肉体的な休み、たとえば横になって体を休めるというよりは、精神的な休みを取るように勧めています。

宣教活動は人々の悩み苦しみに寄り添って手を差し伸べることが多いので、精神的な疲れがあるとどうしても続けられません。「人里離れた所」は、イエスが父なる神と語り合うために好んで選ばれた場所ですから、弟子たちにも父なる神に自分を委ねることで力を取り戻してもらいたかったのだと思います。

ところで、弟子たちに休みを与えている間も、悩み苦しむ人々は救いを求めて集まってきます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(6・34)

エスのこのような姿は、文字通りの働きを表していると同時に、弟子たちが休んでいる間も、イエスが悩み苦しむ人々のために休まず働いてくださるから、休む時は信頼を寄せて休みなさいと言われているのだと考えました。司教も司祭も、どこかで休みが必要になります。

その間も絶えず悩み苦しむ人が救いを求めてくるわけですが、イエスは休まず働いて、司教や司祭の足りないところを満たしてくださるのです。教会は、見える姿だけではなく、見えない姿もあって、絶えず宣教し、絶えず人々の苦しみに寄り添っているのだと思います。

教え、励まし、時には戒めてくださるイエスが、弟子たちを通して、枢機卿様、司教様、司祭を通して働き、彼らが休んでいるときも、羊のために休まずイエスがお世話してくださる。この姿を今週は持ち帰りたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼あんなに大阪は暑いのかと、甲子園球児のことまで考えた叙階式だった。なんとか無事に叙階式を見届けたが、叙階式をあの暑さでやり抜く枢機卿様と被選司教様2人の気力がまずすばらしい。
▼炎に焼かれても信仰を守り抜いた殉教者の心境はあのようなものだったのかもしれない。驚嘆すべき信仰を見ることができた。これは現地で体験した人しかわからない話だが、自分は叙階式のあとあべのハルカスに見物に行ったのだが、そこまで電車に乗っている時の話。
▼一組は新しい補佐司教の本を小脇に抱えた夫婦。関西の言葉だったのだが、内容的には「司教様のご本にたくさんのひとが殺到して、大変だったわよ」と言いつつ、自分は本を手に入れたのだとご満悦の様子。
▼もう一組は、「枢機卿というのは、日本全体に目配りするお方だから、忙しくなるに違いない」とこれまた枢機卿の任務について配偶者に得意げに話している。私が感心したのは、電車という公共の場で、離れた私にも聞こえるように大阪の人が信仰体験を語っておられたということだ。
▼私には偏見があった。大阪や東京の人は、信仰の話を電車のような公共の場で一切話したりはしないものだと思っていたわけだ。それがどうだろう。堂々と、私が司祭のシャツを身に着けていなければ「どんな話ですか」と会話の輪の中に入りたいくらいだった。
▼補佐司教の一人が「神さまはいつも人を驚かせることができる」といった挨拶をしておられたが、私にとっては都会の人が電車の中でその日起こった信仰の偉大な伝承を語り継いでいることが「力ある不思議なわざ」だった。

† 神に感謝 †