聖母の被昇天(ルカ1:39-56)

聖母被昇天の祝日、この祝日をどのように祝うのか、そこから広げて、私たちはふだんのミサをどのように祝うようにすれば、より積極的にミサに参加する気持ちになれるか、考えてみたいと思います。

13日月曜日に、ご年配の男性がミサを頼みに来ました。この日午前中は司祭団ソフトの練習に召集され、若い司祭たちに混じって汗をかき、ヘトヘトになって司祭館でひっくり返っているときでした。もう少し詳しく言うと、シャワーを浴びてそのままの状態で畳にひっくり返っていたのです。

慌てて服を着て、「よりによって月曜日に」と思いながら玄関に立つと、ご年配の男性が二人立っていました。「〇〇と申します。墓参りと、おばを訪ねにやってきました。ミサをお願いします。」ミサと言ったので急に私の顔はにこやかになり、「ああそうでしたか。暑いのに大変でしたね」とねぎらいの言葉をかけました。

この方々が訪ねに来た人は、私がお見舞いしている人でした。苦労した時代に良くしてもらって、歳をとった今でも当時のように「お姉さんお姉さん」と言うのだそうです。

ミサは、そうしたお世話になった方を含めた意向のミサでした。私はここで、ふと考えたのです。私たちが小さい頃に「お姉さんお姉さん」と慕った人は、いつになっても訪ねていくし、いつになってもお姉さんとして慕うのではないだろうか、ということです。

今日私たちは聖母被昇天の祝日を祝っています。マリアが体も魂も天にあげられたことを祝う日です。イエスと最も深く結ばれていたマリアが、真っ先に復活の栄光にあずかったことを祝う日と言っても良いでしょう。ただ実際には、体も魂も天にあげられたことを祝いに行きましょうと集まった人はどれだけいるでしょうか。あまりいないかもしれません。

それが悪いと言っているのではありません。私が言いたいのは、私たちはもっと素朴な理由から、今日の聖母被昇天のミサに与っているのではないでしょうか。たとえばそれは、守るべき大祝日だからかもしれません。

残念ながら、ある時から日本の教会は聖母被昇天を守るべき大祝日から外しました。今はクリスマスと、神の母聖マリアの二つだけが守るべき大祝日です。あと守るべきなのはふだんの日曜日です。

先ほどのミサに行く動機ですが、もっと単純な理由で集まっているかもしれません。「マリア様のお祝いだから」この理由で集まる人も多いことでしょう。マリアを慕い、マリアに親しんで日々を過ごしている。だからマリア様のお祝いには参加したい。この考えは、まさに小さい頃から姉と慕った人を歳をとってからも変わらず大切にし、欠かさず訪ねに行く姿ではないでしょうか。

私はこうした考えが、聖母被昇天を祝うすべての人に浸透したらいいなと思っています。ふだんから聖母マリアに親しんでいるから、集まる。家庭でロザリオをしている人は特にそうでしょう。また家庭祭壇にマリア様を飾ったり、マリア様を額に入れた絵を飾ったりする家庭も、マリア様に親しみを感じるきっかけになるでしょう。こうしたふだんの聖母マリアとのふれあいが、「マリア様のお祝い日だから集まる」この考えに行き着くのだと思います。

同じように、ふだんの日曜日のミサに親しむためには、「イエス様のお祝いだから集まる」そんな素朴なきっかけが浸透してほしいなと思うのです。ふだん家庭で祈る時、イエス・キリストに呼びかけて祈ることが圧倒的に多いはずです。

家庭祭壇に聖母マリアだけ飾ってイエス像を飾らない家庭もいないでしょう。イエス像も飾ると思います。そこから、ふだんイエス・キリストに親しみを持つ人に育っていけば、「日曜日はイエス様のお祝い日だから」この理由だけで教会に集まることができるのではないでしょうか。

福音朗読でマリアは神をたたえて、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1・51-53)とも言いました。

思い上がる者、権力ある者、富める者は皆、12日の日曜日に話した通り手の甲を上にして人を呼びつけ、上から掴み取り、命令する人たちです。神はそのような者の間を通り抜けて、身分の低い者、飢えた人、そのほか手のひらを上にしている人々に近づくのです。

マリアもまた、小さくされた人の代表です。人は手の甲を上にしている人を慕っては行かず、手のひらを上にする人に親しみを覚えるのです。マリアを慕う人として集まった私たちは、これから出会う人々に、「私たちはマリア様を慕っているので教会に集まるのです。私たちはイエスを慕っているので教会に集まるのです」と知らせましょう。

マリアを慕って教会に集まる人が増えれば、平和はもっと身近なものに、現実的なものになっていくはずです。

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ちょっとひとやすみ
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▼歳を感じ、ショックを覚えた。ここで天に帰るのかとさえ思った。風呂に入り、浴槽の湯を抜いて、タイルの床に片足を掛けたときだった。足が滑り、倒れそうになったので浴槽の足で踏ん張った。するとその足も滑り、さらに手をついて支えようとしたら手も滑って肘を強く打ち、肘の皮膚が切れて出血した。
▼「風呂場で転んで怪我をする」とか「風呂場で溺れて命を落とす」といったことは年寄りに起こるもので自分は関係ないと思っていたが、初めて足を滑らせ、痛い目にあってみると、他人事ではないとつくづく思う。歳を取ったのだと思い知らされ、ショックを覚えた。
▼それから数日して、徐々にすねとか、他にも痛めている場所があることが分かり、本当に悲しくなった。歳を取ったことは認めるが、足が滑るような年寄りだとは思っていなかったので、今回のことはとても落ち込んでいる。
▼これと変わらないくらい落ち込む出来事が同じ日に起きた。風呂で足を滑らせた時点で「今日は用心しろよ」という合図だったのに、それを無視したことが悔やまれる出来事だ。またも江迎中学校近くの高架下。この時は佐々からの帰り道だったので、通行時間の規制はないのだが、高架下をくぐって県道に出る時、必ず一時停止が必要な場所である。
▼月曜日で、司祭団ソフトの練習でみっちりしごかれ、疲れて少しでも早く帰りたい気分だった。軽トラックであったこともあり、坂道発進が苦手な私は、オートマでない車で坂道発進をして後続の車に迷惑をかけたくなかった。そこでじわっと減速しただけで一時停止を通過し、県道に出た。「警察は見たところいない。大丈夫だ」そう思って後ろを振り返ると、私の直後に警察車両がピッタリくっついていた。
▼頭が真っ白になり、「これはもう死んだ」と思った。天に昇ったかと思った。ところが警察車両から「止まれ」とか車のナンバーを呼ばれることもなく、ただピッタリくっついてくる。落ち着いて、「マツモトキヨシの先の分かれ道で警察車両をかわそう」そう思って自分は右折ラインに移動した。
▼それなのに、警察車両も右折ラインに並んできた。警察車両は直進するに違いないと思って右折ラインに乗ったのに、なぜ私の後ろに並ぶのか。ここからがオチだが、この警察車両はただ単に江迎警察署に帰って昼を過ごそうとしていただけだったのだろう。側道から合流した私が一時停止違反をしたことも知らなかったのかもしれない。
▼仮に私の一時停止違反を知っていたとしても、彼らは昼の時間をゆっくり過ごすことを優先し、やり過ごそうと思ったのかもしれない。一日に二度、昇天しかけたことは、「暑くて判断力が鈍っていたとしても、用心を忘れてはいけない」という強い警告だったのだと思っている。

† 神に感謝 †