復活徹夜祭(マタイ28:1-10)

主の復活、おめでとうございます。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(28・7)弟子たちは復活したイエスと、ガリラヤで再開することになります。ガリラヤにこだわって、今年の復活祭の学びを得ることにしましょう。

主の天使がイエスの墓を訪ねに来たマグダラのマリアともう一人のマリアに語りかけます。墓は、イエスが十字架の上で亡くなられて、その結果としてご遺体が納められている場所です。人間の通るべき順番に沿って、婦人たちはイエスを訪ね求めたのです。

ところが主の天使は、十字架にかけられたイエスは、もはや人間の通るべき道のりの先にはおられない、新しい見方に立たなければ、イエスには会えない。そのように促しました。一方で、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(28・4)とありますが、それは、彼らが人間の辿るべき道の先にしかイエスを見ることができなかったので、完全に我を失ったのです。

では、主の天使が婦人たちに伝えた「ガリラヤ」とは、いったいどのような場所だったのでしょうか。マタイがイエスの宣教開始を描く中に次のように触れられています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4・15-16)つまり日の当たらない地方だったということです。

また、昨晩のヨハネによる受難の朗読の中で、律法学者のニコデモがイエスを擁護すると、他の律法学者からこう言われました。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」(ヨハネ7・52)ガリラヤは、人々から低く見られていた地方、日の目を見ない土地のシンボルだったのです。イエスはそのガリラヤに先に行って待っておられます。

さらに踏み込んで、低く見られていた人々が住む町ガリラヤに弟子たちが行くとはどういうことでしょうか。ここでわたしは、二つのことを考えました。一つは、人々が見るようにガリラヤを見ている間は、イエスに出会うことはできないのだろうということです。

もう一つは、イエスは三年間の宣教活動のほとんどの時間をガリラヤで過ごし、その教えは人々に受け入れられました。わたしたちが上からの立場で人に接したり、この世が重要視するような物の見方で生き続けるなら、イエスに出会うことはできないのだと思います。

エスが弟子たちを「ガリラヤへ行くように。そこでわたしに会うことになる」と促すのは、「世の人々があこがれる価値観とは全く違う価値観で生きたあの日々を思い出しなさい。ガリラヤでわたしがしたように、人々から見放された人にも手を差し伸べ続けるなら、あなたたちはわたしに出会う。」そのように教えたいのだと思います。

さて、これから入信の秘跡に臨もうとしておられる吉田さん。吉田さんはご家族と一緒に引っ越してこの田平町においでになりました。それは、環境を変えるということだったと思います。わたしは、引っ越して住まいを変えることも環境を変えることだと思いますが、カトリックの司祭としては、むしろ今日洗礼をお受けになることが、最も環境を変えるきっかけになるのではないか、と思っています。

今日お父さんが洗礼をお受けになることで、ご家族全員がカトリックの洗礼に結ばれた家族になります。ミサにおいでになった時、全員が聖体拝領のできる家族になります。一つの祈りを、みんなで唱え、一つの歌を、みんなで歌う家族になります。これこそが、環境を変える出来事、環境が新しくなる出来事ではないでしょうか。

主の天使は、神から託されたことばを婦人たちに伝えたあと、「確かに、あなたがたに伝えました」(28・7)と結びました。洗礼式を前に、わたしも同じことを言いたいと思います。神様は、環境を変えたいとのご家族の望みに、はっきりと関わってくださいました。

フランシスコ・ザビエルが宣教した平戸にご家族を招き、フランシスコ・ザビエルの洗礼名のもとに洗礼を受けて今日のこの復活の喜びを迎えらえるよう、神は長い時間をかけて導いてくださったのです。これから受ける洗礼式を通して、神はそのことをはっきり教えようとしておられるのです。「確かに、あなたに伝えました。」

ここにお集まりの皆さんも、復活した主イエスに出会うためにおいでになった方々です。復活した主と出会うために、わたしたちはこの世があこがれるような価値を追い求めてはいけません。むしろ降りて行って、悩みを抱えている人や声を上げることのできない人に耳を傾ける人になりましょう。そこで初めて、わたしたちは復活した主に出会うのです。今日から、実行しましょう。「確かに、あなたがたに伝えました。」

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ちょっとひとやすみ
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▼ご復活おめでとうございます。ことしは、ありがたいことに洗礼式が復活徹夜祭と復活の主日日中と、両方組まれている。親子での洗礼であれば、同時によかったのだが、今回は分けて行うことにした。どちらのケースも、これで家族全員がカトリック教会の家族となった。
▼こちらに来て、事情はいろいろあって一概ではないが、洗礼式を何度も経験させてもらっている。前任者が残していってくれたのかもしれないが、勉強会も含め、働かさせているぞ。新たな年度は、どのようになっていくだろうか。
▼せっかくプロジェクターを買ったので、復活徹夜祭に光の儀式を撮影して離れている人にも見せてみようと思った。デジカメをカメラ代わりにして(ビデオカメラ持ってないので)、復活のローソクと、その周りを照らす明かりだけでプロジェクターから投影してみようと思っている。果たしてどうなるか。
▼プロジェクターで感じた人もいるだろう。赴任最初の年度は、いろいろと物入りである。思い切ったことをするということもあるし、前任地でいろんなものを捨てて新任地に行くということもある。
▼たとえば、お賽銭のうち硬貨を計算する機械を持っていたが、前任地に置いてきた。不要になったからではない。どう考えても必要なのだが、置いていけば後任の司祭も助かるだろうし、地区の活動(クリスマス街頭募金)にも重宝する。覚えてくれる人はいないかもしれないが、恩を売るわけだ。
▼硬貨を計算する機械も結構な値段。プロジェクターも結構な値段。いろいろ物入りの一年だっが、十分に活躍してくれた。プロジェクターなどは明確な使用目的を持たぬまま購入したが、考えれば使い道は出てくるものだ。さていそいで復活の主日日中のミサにとりかかろう。

† 神に感謝 †