年間第33主日(ルカ21:5-19)

「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」(21・14)イエスは弟子たちがだれかの前に引き出される時を見据えて、弁明の準備ではなくイエスへの信頼こそが弟子たちを守ると教えます。わたしたちもイエスの呼びかけを自分のものとしましょう。

亡くなったわたしの父は数々の武勇伝を持っていますが、その中でもわたしが感心した話は、エホバの証人が自宅にやってきたときの話です。わたしが休暇で戻った時に、「こんなことがあった」といって話してくれました。

エホバの証人の人たちは父の家にやって来て、教えられたとおりの手順で父に話しかけてきました。父が家にいたということは、雨の日か、牛に与える草を切る道具の手入れをしていたのでしょう。エホバの証人の人たちは、父を農家のおじさんに過ぎないと思っていたかもしれません。

しばらく話を聞いていましたが、しつこいので最後に「失せろ」と一喝しました。するとエホバの証人たちはひとたまりもなく退散したそうです。父が「失せろ」と言ったのだと話す様子は、場面を想像するだけでも傑作でした。この話を聞きながら、わたしは父親をあらためて尊敬したのです。

エホバの証人が活動していることはいろいろなうわさで耳にしていたかもしれません。その人たちはどういうことをしていて、どういう風に接すればよいのか、前もってわたしに聞くこともできたでしょう。けれどもいざその場面に立たされてみて、父は人間のどんな言葉や知恵にも頼らず、イエスが授けてくださる言葉に信頼を置いたのです。

聖書の次の言葉を思い出しました。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」(マタイ7・23)さすがに「失せろ」という聖書の言葉はありませんが、イエスはわたしの父に、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、授けてくれたのだと思っています。

だれでもそうかもしれませんが、弁の立つ人を前にすると、つい自分も言い負かそうとしがちです。言い負かそうとするとき、どうしても自分の言葉を探してきて、対抗しようとするわけです。

エスはそうであってはいけないと言います。相手に思い直させ、恥じ入らせる言葉はイエスが授けてくださる。特にわたしたちの信仰を惑わせ、信仰に根差した生活を脅かす人を退けてくださるのは、わたしがひねり出した言葉ではなくて、イエスが授けてくださる言葉、知恵なのです。

今週の福音は、神殿の崩壊の予告と、終末の徴について考えさせています。社会を惑わしたり、わたしたちが信じている信仰を脅かす出来事はいつか必ず起こるわけですが、どんな不安な出来事であっても、わたしたちはイエスに信頼してしっかり立つ必要があります。

エスが、終末を予感させる徴について触れるのはなぜでしょうか。たとえば親が、臨終を前にして子供たちを集め、「わたしはもう時間がない。これから言うことをよく聞きなさい」と呼びかける場面を例に考えてみましょう。いよいよ旅立とうとする父あるいは母は、子供たちを不安がらせ、脅えさせるためにそう言うのでしょうか。

そうではないと思います。今はどうしてもお別れをしなければならないので忍耐が必要ですが、その忍耐は、旅立っていく両親が子供たちに永遠の命への希望を持たせる道となるのです。別れを述べる父母の前で崩れ落ちることなく、希望のうちに立っていられるとしたら、その拠り所はイエス・キリストに違いありません。この世のどんなものにすがっても、父母との別れに気を落とさず、立っていられることなどできないからです。

エスもそうです。しばらくするとイエスを信じる弟子たちを置いて、受難と復活を通して御父のもとに帰らなければなりません。今週朗読しているのはルカ21章ですが、22章になるとイエスを殺す計画が持ち上がり、過ぎ越しの食事を弟子たちと共にし、物語は最後の場面へと進んでいくのです。

エスが終末について語るのは脅えを抱かせるためではありません。さまざまな徴の中でもイエスに信頼して立っている人は、最後には復活のいのちを得る。試練の中にも惑わされることなくイエスを信じて生きることが確かな道となるのです。

それでも準備をしておけば安心なのではないかと思うかもしれません。子供たちが父母を見送るとき、葬送の挨拶を前もって準備するでしょうか。きっと、直後に考えるのであって、限られた時間の中でも何かしら言葉を与えられるのではないでしょうか。

エスは「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」と言います。わたしたちはイエスに拠り所を置いて立っている者ですから、イエスがおっしゃる通りにしましょう。むしろわたしたちが毎日イエスを拠り所として生きることが、立派な準備なのです。すべての出来事を、イエスに信頼を置いて生きる中で位置づけする。終末を迎えるにあたってこれ以上の準備はないのだと思います。

わたしは、世界がひっくり返るような出来事を見るとき、惑わされずに立っていられるでしょうか。すべての出来事を、イエスに信頼を置いて生きる中で位置づけしてきた人生であれば、その日その時を揺らぐことなく迎えることができるでしょう。わたしたちは終末の日を頭の隅に置きながら、イエス・キリストを判断の物差しにして今を生きる必要があります。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週の続き。散髪屋からスキップして帰ったのは午後2時半。前日からほとんど寝ていない。夜8時の結婚講座まで何もないし、今のうちに昼寝をしようと、布団に潜った。
▼布団に入るのが早いか、すぐに玄関のチャイムが鳴る。「なんてタイミングだ」と思いながら玄関に向かう。不機嫌な顔をしないようにと思って玄関に立つと、以前福岡の大名町教会での結婚式のため書類のお手伝いをした家のご家族がやって来て、お世話になりました、これは気持ちですと言って日本酒1本とお魚を運んできた。
▼喜んで受け取りましょう。そう言って受け取り、「お母さん、お孫さんが楽しみだね」とねぎらって見送った。受け取った品物を食堂に運んだあと、また布団に潜るとすぐにチャイム。「いったい誰だ?」今度は不機嫌な顔だったかもしれない。「宅急便です」とドアの向こうから呼んでいる。「はい。」印鑑を押して、また布団に戻る。
▼布団に入ろうとした。またチャイム。「いい加減にせいや〜。」佐川急便だった。どうでもいいから早く寝かせてほしい。そう思ってまた布団に手をかけると、今度はお隣の案内所から内線電話。「申し訳ありません。某教会の評議会議長がおいでになってまして、できれば面会を希望しているのですが・・・」
▼泣きたい気分だった。そこそこの服に着替えて面会に出向くと、その人は困った顔をしている。評議会議長として信徒と主任司祭の板挟みになり、苦しくて違う教会の神父様にすがりにきたのでだろうか。話を聞いた。
▼1時間、悩み事相談を傾聴。次の1時間、田平小教区で主任司祭と信徒はどんな関係かの質問攻め。もう帰りたい。そう思っていた時、「上五島、特に鯛之浦にはずいぶん思い出があります」と話し始めた。鯛之浦を知っているといっても、通り一遍の話だろうと思っていたが、全く違う方向に話が進んだ。
▼「わたしにはむかし婚約者がいました。Uという姓でした。」「ちょっと待て。鯛之浦にU姓でカトリック信者はそうはいないよ。」「鯛之浦のことをご存じなのですか?」「ご存じも何も、鯛之浦教会出身だから」「えー!」「同級生のU・Hは、カトリック信者の女の子3人の中で3番目に可愛かったね」「わたしの婚約者だった人は、そのU・Hさんのいちばん上のお姉さんです!」
▼「何と言った?えー!奇遇だね〜」そういう話から中田神父の仮眠時間は完全に取り上げられた。わたしも傾聴だけでは終われず、先週分と今週分の話をセットで夜8時の結婚講座のカップルに話し、ジェットコースターのような一日が終わった。

† 神に感謝 †