復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)

あらためてご復活おめでとうございます。復活の卵に「当たり」が入っていた人もおめでとうございます。福音朗読から、「見て、信じた」というヨハネの理解に少しでも近づくことにしましょう。

今から6年前のことです。当時司祭館では信者の賄さんが働いてくれていました。この賄さんは食事を用意しながら鼻歌を歌うのが常でした。後期高齢者が口ずさめる歌ばかりでした。

浜串教会への異動の辞令を受け取った翌朝のミサ後の朝食、いつものように鼻歌を歌いながら食事を並べているところに、二階からわたしが降りてきます。階段を降りている途中で歌っている鼻歌が聞こえてきて、その歌に胸が締め付けられ、再び二階に戻りました。あろうことか、「星影のワルツ」を歌いながらご飯を用意していたのです。

「別れることはつらいけど しかたがないんだ君のため 別れに星影のワルツを歌おう 冷たい心じゃないんだよ 冷たい心じゃないんだよ 今でも好きだ 死ぬほどに」転勤の事実を知らないとは言え、いくら何でも選曲が悪すぎます。二階で気持ちを落ち着かせていると、一階から追い打ちをかけるように「おつゆが冷めます。早く降りてきてください。」平静を装うのに苦労しました。

こちらでも面白いことが起こりました。社協の食事サービス「マリア会」でのことです。3月の食事サービスを終えて「来月はいつにしましょうか。去年桜を見に土井ノ浦に行きました。神父さまは去年参加できなかったので、今年はぜひお願いします。4月8日でいいですか?」と聞いています。

慌ててわたしは「4月8日はちょっとまずいんでないかなぁ」と生返事をしました。「4月1日は寒いです。では15日にしましょう。」「15日はますます悪いんでないかなぁ。」それでとうとう事情を話す必要に迫られまして、異動なのだとそれとなく言ったのでした。

福音に戻りましょうご復活日中の典礼に選ばれているヨハネ福音書第20章から、一つの点を指摘しておきたいと思います。それは日本語で「見る」と訳されている箇所についてです。与えられた朗読に3個所登場します。「墓から石が取りのけてあるのを見た」(20・1)「亜麻布が置いてるのを見た」(20・6)「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(20・8)

ギリシャ語ではそれぞれ別の単語です。それぞれ意味が違うと考える聖書学者もいます。解釈に立ち入らないとしても、マグダラのマリアが見た後にペトロに伝え、ペトロが見た後にイエスが愛しておられた弟子が見て、最終的にイエスの復活を信じました。

見たことを告げ知らせ、見たことを反芻する中で、イエスは生きておられると理解できたのです。これは、わたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。わたしたちもできる限りミサ聖祭に集い、ここで聞いたみ言葉を告げ知らせ、みことばと聖体の恵みを反芻する中で、イエスは生きて、わたしたちを導いておられると理解できるようになるのです。復活の信仰は、繰り返し見て、何度も告げ知らせて、反芻するうちに、信じることができるようになるのだと思います。

ご復活の知らせが来ると、教会によっては新しい体制で教会の歩みが始まります。浜串小教区もそうです。浜串小教区が、新たな気持ちで復活の主を証しする教会家族となれるよう、ミサの中で共に恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼この復活の主日の時点では、引っ越しの荷造りはほぼ終わっていて、あとはあえて荷造りしなくても車に放り込んで車と一緒に引っ越せるものだけが残っている(ことになっている・・はず)。車で運ぶ物の中に釣り道具があって、これは最後まで手放せない。最後の一匹まで浜串の魚を釣って「さよなら」とあいさつして去っていくつもりだ。
▼今回の転勤は周りから「田平かぁ。いいなぁ」と言われる。引き継ぎを聞いた範囲では問題山積ということではなさそうだが、ただ「取り組むべきことが山積み」という感じはしている。だから「取り組むべきこと」を知った上で「いいなぁ」と言うのであれば、もしお望みであれば代わってもよい。代わらないだろうけど。
▼さまざまな公共機関を利用するチャンスが出てきそうだ。たとえば田平から佐世保市内にやってくるときに、第三セクター(だったと思うが)の松浦鉄道を利用する場面も出てきそうだ。あるいは西肥バスで行くことも。同じように、長崎市内に出るときも、電車、バスを乗り継いで行く場面もあると思っている。いろいろ調べるのは楽しいものだ。
▼ただ、故郷の新上五島町鯛之浦に出ていく時が問題だ。可能性としては、田平から佐世保港に出てきてフェリーに乗る方法。これからは高速船ではなく、フェリーにバイク(もしくは車)を乗せてのんびり出ようと思っている。
▼もう一つは、思い切って博多港に出て、そこから夜11時45分のフェリーで五島に渡る。遠回りだが、朝6時に五島に上陸するメリットは魅力的だ。一日釣り三昧で時間を使って、実家で刺身を分け合って食べて一晩過ごし、帰りは佐世保経由で帰るという手もあると思う。
▼復活の主日と全く関係のない話ばかりで申し訳ない。しかし復活の主が行きなさいと言ったところでまた働く。この繰り返しの旅の中で、いくらかでもお役に立って、人生を全うしたい。

† 神に感謝 †