キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)

大分の叙階式にどうしても未練があって、6時45分からミサを開始しました。知らずに7時においでになった方はお許しください。ここまで協力してもらったのに、船が出るのかどうか、説教書いた時点では保証はありませんで、説教している時間にはきっと決定しているでしょう。

今日はキリストの聖体の祭日です。ミサで祝われる聖体の秘跡について、どうしても話したいことに絞って話を進めます。イエスを信じることができないでいるユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(6・52)このことにこだわって、その先に進むことができないでいます。

わたしはこう考えます。「イエスが、天からおいでになった方で、世を生かす方であれば、きっと何かの方法で、御自分を食べ物として与えてくださるに違いない。」これは、イエスを信じているからたどり着く考えです。イエスを信じることができないユダヤ人たちは、どうしてもこのように考えることができないでいます。ですから先へも進みません。

エスの言葉を信じる者が、世を生かす食べ物にたどりつきます。最後までイエスを信じ続けた弟子たちには、「どうやって食べさせることができるのか」を知ることができました。最後の晩餐の席で、パンとぶどう酒の形のもとに、イエス・キリストがとどまって、弟子たちをはじめイエスを信じる者すべてに、イエスは食べ物になってくださいました。

パンとぶどう酒のもとにイエスがとどまる聖体、わたしたちの食べ物となってくださった方が、「世を生かすためのわたしの肉」となるためには、もう1つわたしたちからの協力が必要だと思います。それは、イエスの食卓に連なるということです。

エスの食卓に連なる者に、ミサの中で司祭は次のように呼びかけます。「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い。」もちろん聖体拝領のことを直接には指していると思いますが、神の子羊の食卓は、御言葉の食卓と、聖体の食卓と、両方を忘れてはいけません。御言葉の食卓にも、「世を生かす」力があるのです。

この、「イエスの食卓に連なる努力・工夫」を、わたしたちは続ける必要があります。日曜日(主日)のミサに参加する努力・工夫はもちろんですが、平日のミサに参加する努力・工夫も、イエスの食卓に連なるためにとても大切だと思います。なぜなら、平日のミサに参加する努力・工夫を忘れない人は、主日のミサに参加する努力・工夫を忘れないと思うからです。

食べ物、飲み物は、眺めているだけでは食べ物、飲み物になりません。手に取って食べ、飲むのでなければ、世を生かすことはないのです。イエスを信じることでイエスの食卓までたどり着き、とって食べることで「世を生かすためのわたしの肉」といたしましょう。また、「わたしはこうやって、この世を生きている」と証しする者となりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼6月26日(日)は大分教区司教の叙階式。どうしても参加したくて、あらゆる方法を探った。ところが、前日25日(土)はことごとく自分が乗りたい航路の便は欠航になる。ガッカリし、心が折れそうだった。当日どうなったのか、前日に原稿を書いているので知らない。
▼知り合いの方は、朝6時50分の、わたしとは別航路の高速船に乗って佐世保にいったん上陸するのだと聞いた。長崎上陸を望んでいる自分としては、佐世保に上陸から移動というのは想定していないので、行けるルートがありそうだというのはうらやましいが、長崎からのルートでダメなら、今回は諦めるしかない。
▼長崎の教区長郄見三明大司教が今回の叙階式を司式する。わたしの記憶では、郄見大司教が司教叙階式を執行するのは初めてではないかと思う。それもあるので、どうしても行きたいと熱望しているのだが、ちょうどのタイミングに、いちばん来てほしくないコースで台風が来てしまったのだ。
▼諦め・・・るか。そうなると、日曜日以降の過ごし方は別のことを考えよう。山積みになっている本を片っ端から読んで整理するとか、次に予定が控えている原稿を思い巡らしてみるとか、まぁいろいろある。26日は7月9日(土)10日(日)にまたがっての馬込小教区巡礼の締切日でもある。
▼現時点で巡礼申し込みはほんのわずかだが、15人集まれば船の団体割引対象になる。「あきらめるな」という呼び掛けは、今度はここで響いてくるかもしれない。諦めなければ道は開ける。最近身近に体験した事じゃないか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===